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井村一登 個展『折衷案がもたらすNレンマ』

開催記念トークイベント
「鏡としてのアート

井村 一登(アーティスト) × 菅 実花(アーティスト)× 岩垂なつき(美術批評)

日 時: 2024年4月13日(土)17:00〜

会 場: KANA KAWANISHI GALLERY

登壇者: 井村 一登× 菅 実花× 岩垂なつき

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「鏡の歴史」を網羅したその先

〈「鏡の歴史」を網羅したその先〉

岩垂:    黒曜石の作品で石器時代まで時を遡られ、鏡の歴史に関しては一通りやり切って、次のステップに踏み込んで生まれたのが今回の新作と考えてよいのでしょうか。

井村:    そうですね。研究のような感覚で作品制作に取り組んでいるがゆえに、制作して改善すべき点と解決策が分かってしまった時点で満足してしまい、いざ実際に改良版を作る前に制作をやめてしまう癖があります。とはいえ、側から見るとある程度は作品が仕上がっているようにも見えてしまうので「きれいな仕上がりの作品を作りたい人」として認識されてしまうこともありました。これまでの展覧会ではあらゆる鏡にまつわる素材を使って制作した作品を網羅的に発表して「僕はこんなことを考えて作品を作っています」ということを紹介する形をとっていました。そのため、やや資料的な見せ方になっていたのですが、一通り鏡の歴史を網羅し、自分の中で満足できるところまでやり終えたので、ようやく「一つのコンセプトを突き詰めよう」という意識で取り組めた初めての展覧会が今回の個展なんです。

「折衷案がもたらすNレンマ」は常日頃から感じていたことを体現しているタイトルであり、今回の展覧会でそうした概念をいかに作品として視覚化するかをクリアできたと思っています。今までで自分の主張が一番分かりやすく表現されている展覧会かなと感じています。


菅:    作品の背景にある作者としての井村くんの意図が今回の展示では明確に見えてきますよね。これまでは素材や現象に傾倒していて、作者の痕跡があまり見えないタイプの作品が多かった印象があります。何を使ってどうやって作っているのかが見えづらく、とはいえ作品そのものは質の高いものであることは分かるからこそ「一体この人は何者なんだろう」と私も感じたのだと思います。

岩垂:    菅さんが今回の展示をご覧になって「これまでとは違うな」という印象がありましたか?

菅:    まず最初に感じたのは「映る鏡だな」ということです(笑)。次に思ったのが、レーザー加工機を使って作られている図像が何なのかが読み取りづらいなということ。普通は何らかの図像であれば記号的に受け取れば良いんのですが、そのような受け取り方ができないので、鑑賞者に「これはどういうことなんだろう」という疑問を誘う作品なんだなという印象を持ちました。

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「折衷案がもたらすNレンマ」展示風景

井村:    実は図像のモチーフを決めるまでにだいぶ迷いがありました。今回のステートメントの末尾に「折衷が生んだその鏡は、鏡としての主張もまともにできない静かな鏡である」とありますが、現代はコミュニケーションにおける齟齬がとても起きやすい時代だなと思うんです。例えば誰かが「Aです」と言い切ったときに、別の人が「いや、Bとも言えますよね」とか「Cとも言い切れませんよね」と無限に反論できてしまう世の中だなと。なので、何を言うにしてもその主張すべてに一つ一つ注釈をつけなければいけない。誰かが発言したことに対して、それを受け取る側が全部の文脈を読み取らずに一部だけをみて本来の狙いとは異なる受け取り方をしてしまう状況があって、主張すること自体が怖くなってしまうことがありました。そこで、〈tele portrait〉は写真を基に図像が作られていますが、具象的なモチーフではない方が良いと考え、これまで僕が作ってきた「映らない鏡」を撮影することにしました。そうすれば、姿形自体は映っていないながらも、自分自身をモチーフにしたポートレートが出来上がり、今までで一番「何も主張しない」に近い状態を作れるのではと思ったんです。

仮に自分の姿が完全に作品に写っていれば「ルッキズムやナルシシズムに言及しているのかな」と読み取ることができると思いますし、もしどこか特定の風景が写っていたら、その場所を起点に思考を巡らせると思います。もしくは完全に鑑賞者を映し出す鏡であった場合は反射させることに意味を見出そうとするのではないかと思います。そんないくつもの可能性がある中で、一番中途半端なことをやりたかったんです。

いや、「やりたかった」というよりは「そういうものしか作れない」という、まさしく「折衷案」ですね。ステートメントに「途方に暮れた結果」とありますが、何を発言しても意図通りに受け止めてもらえないような気がしていました。「折衷が生んだその鏡は、鏡としての主張もまともにできない静かな鏡である」とは、途方に暮れながらも自分自身をモチーフにすることで、1の主張に満たない「0.4くらいの主張」をする姿勢を示しています。全く主張がないわけではない、でも人によっては主張として受け止めずに四捨五入して切り捨ててしまうくらいの静かな声で主張しているイメージです。菅さんが先ほど今回の展示作品について「いつもより映る」とおっしゃっていましたが、何も意識していなかった、もしくはできなかった結果なのかなと思っています。今回作品を作ってみて久しぶりに「そういえば鏡って映るんだった」と思い出したんです(笑)。

一同:    (笑)


井村:    普通は鏡の作品を展示する際はもっと映り込みを考慮して配置構成を考えると思うのですが、これまでは展示空間の中で作品同士が映り込むことがなかったので、そこをまったく意識せずに設営していましたが、ある意味自分の中にあるリアルな感情を見せられているなと思います。このギャラリーは窓が広いため日の当たり方が時間によって大きく変わるので、昼間に設営を始め、夜になって展示が完成して初めて映り込みのことに気がつきました。「何年アーティストとして活動しているんだ」とツッコまれそうですが(笑)。

岩垂:    鏡を使う現代美術作品には、菅さんがTOKASで展示した《非反転劇場鏡》も含め、鑑賞者が映り込むことで作品が完成するものが多くあると思うのですが、井村さんはその方向性ではないですよね。

井村:    もともと僕は鏡の構造に面白さを見出していました。鏡は歴史の中で素材が変わっていきながらも同じ「鏡」として作られてきましたが、例えば椅子や机が様々な素材で作られてきたことと同じようで、何かが違うと思うんです。とはいえその違いが何なのかというと、それは未だに言語化できずにいますが、そこに面白さを感じていますね。だからこそ「鏡が映るもの」ということをまったく意識していなかったのだと思います(笑)。

岩垂:    菅さんは「鏡に映る像が自己認識を構成する要素の一つである」と捉えているのに対して、井村さんは対照的に「映らない」ことに焦点を当てているというのが興味深いですよね。鏡はそもそも本当の自分を映し出すものではないと思います。ガラスのノイズが反射に映り込んでしまったり、自分の姿が反射するまで、そしてその光が目に届くまでにわずかなタイムラグが生じているために厳密には鏡に映っているのは過去の自分であるとも言えます。「現在の本当の自分」はいかなる方法でも見ることができない。これもジレンマですよね。

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井村:    鏡に映る姿は実像には劣るけれども、鏡を使うことでしか自分自身のことを知る手段がないからこそ、「しゃあないから」使っているのだと思うんです。像は2Dですし、先ほど岩垂さんがおっしゃったように視覚情報として目に届くまでに光のスピードのタイムラグもあります。

 

菅:    自分の目が顔に固定されている以上、鏡像を見る目線の角度も固定されてしまうので、鏡を二枚以上使うなどしなければ別の角度から自分の姿を見ることもできませんよね。

 

井村:    それに、一般的な鏡は反射率が90%ほどなので、10%ほど暗い自分の姿しか見えない。そういう意味で、鏡を使ったとしても劣化した自分の像しか見ることができない。けれど、自分の姿を見る術が他にないので仕方なく鏡を使っているのだと思うんです。

 

「ドラえもん」で「もしもボックス」というひみつ道具を使って「鏡がなくなった世界」を作る回があります。この話の中では水面もガラスも反射しなくなっていて、カメラの技術も存在しないため、自分自身の姿を見るためには「描く」しかないんです。そこで、スネ夫が色々な人の似顔絵を描いて、「これがあなたの顔ですよ」と教えてあげるんです。例えばジャイアンには怒られないように実物よりもイケメンに描いていたり。先ほど菅さんから挙がった自撮りアプリの話にも通じますが、実物からは再現度の低い像が生まれているわけです。

 

例えば〈wall-ordered〉は合わせ鏡で延々と反射しているように見えますが、その像も実は無限ではなくて、同じ方向にだんだんと劣っていきながら反射しているだけです。そんな「鏡が持つ再現の有限性」も作品を制作する上で考えていることの一つですね。

対照的な二人の「鏡と図像」へのアプローチ

〈対照的な二人の「鏡と図像」へのアプローチ〉

井村:    今回のトークで菅さんに登壇いただきたかった大きな理由の一つでもあるのですが、僕の〈tele portrait〉と菅さんの作品は「鏡と図像の関係性」という観点でいうと、対照的であると思うんです。菅さんの作品に写るのは自身を模した人形という具象的なモチーフでありながら、菅さん本人ではありません。それに対して僕の〈tele portrait〉では、モチーフは抽象的でありながらもセルフポートレートを通して僕自身を映し出しています。こうして菅さんの作品と対比関係が生まれているのではと思い、トークイベントでじっくりお話をしてみたいなと思って今回お誘いさせていただきました。

 

菅:    作品の中で何か具象的なモチーフを使って視覚的な記号を見せてしまうと、本来の意図とは異なる文脈として受け止められてしまう可能性があることを強く感じています。例えば私の作品では服や髪型を決めなければなりませんが、どんな格好をするかについては特にこだわりはありません。とはいえ鑑賞者からは「なぜこの人はロングヘアなんですか?」「なぜこの人はこの色の服を着ているんですか?」と尋ねられることがあるのですが、そんなことを聞かれても「そこにあったから」としか言いようがないんですよね。あえて理由をいうならば、人形は首に継ぎ目があるためにその部分を隠す必要あったり、ウィッグを使っているため、おでこを出す髪型は生え際が見えてしまうので前髪をおろさなくてはならない、というような制約のもとに服装や髪型を選んでいます。ですが、「この髪型/服装にしたということは、こういう文脈があるに違いない」と勝手に推測され、本来とは異なるイメージや意味合いが作品に生まれてしまうことがあります。実際、展覧会で私自身が会場にいるタイミングで、それに気が付かずに来場者が「モデルの顔がイマイチだよね」と言っていたこともありました(苦笑)。そうした事態が自分にとってはどうしてもノイズになってしまうので、どうすれば阻止できるんだろうかと思っていたのですが、井村くんの〈tele portrait〉はある意味一つの解決策なのかなと感じました。自分自身は映っていますが、像が抽象的なために私の作品で起こる事態は発生しませんよね。

 

岩垂:    人の顔はどうしてもアイコンとして強い存在になってしまうので、菅さんのような考えが出てくるのも自然ですよね。

 

菅:    もし井村くんの作品に彼自身の姿が像として映っていたとしたら、私が思っていたみたいに「彼本人はホスト風なのか、山男風なのか」という議論になってしまう可能性もありますよね(笑)。

 

井村:    僕は普段メディア等でも顔を出していないので、もし自分自身を像として作品に出してしまったとすると、「この人物は作家本人なのか、それとも他人なのか」「なぜこの人物なのか」という議論になる可能性が尚更高いかもしれないですね。

 

菅:    そういった意味でも〈tele portrait〉のアプローチは良いなと思いますね。

 

井村:    ありがとうございます。

 

人間の内面は張本人にしかわからず、他者が理解しようと思うと本人から発せられる情報でしか知り得ません。その一方で、人間の外見は他者からしか見ることができず、鏡を使って自分自身を見ようとしても、その姿は鏡の反射のような再現された姿でしかない。ということは、外見と内面を両方とも知っている人間はどこにもいないということになりますよね。〈tele portrait〉には「僕の内面」と「鑑賞者の外見」の両方がどちらも再現ではありながらも映っていて、ある意味、自己理解と他者理解を取り巻くこの状況を提示していると思うんです。

 

岩垂:    レーザーでガラスに彫られた像が井村さんの内面であり、像が彫られていない部分に鑑賞者の外見が映り込み、二つの要素が同居するということですね。

 

菅:    こういう作品ってあまりなかったと思うんですよね。ダゲレオタイプという写真の手法がありますが、これは銀メッキをした銅板の表面に図像を定着させるため、銀の面が鏡のように反射して鑑賞者が映り込んでしまいます。例えばダゲレオタイプのポートレートを正面から見ようとすると、被写体と自分の顔が重なって見えるため写真作品としては見づらくはあるのですが、「過去の人物の顔」と「現在の自分の顔」が重なり合うことで不思議な鑑賞体験が生まれます。井村くんの〈tele portrait〉の構造はこのダゲレオタイプに近いなと思いつつも、モチーフが顔ではないので、鑑賞者は「何が写っているんだろう」と作品を読み取ろうとすると思うのですが、作品を見ようとすればするほど鑑賞者自身の姿ばかりが見えてしまいます。こうした点ではダゲレオタイプとはまた違った鑑賞体験ですよね。

 

井村:    これまでも(映らない鏡を撮った)セルフポートレートを扱った作品は発表してきましたが、鏡に手を加えるアプローチだとダゲレオタイプ的な作品になってしまうのではと思っていました。そこで生まれたのが〈tele portrait〉なわけですが、作品の構造を説明すると、まずは透明なガラス板にレーザーでエッチングを施し、エッチングした面にアルミメッキをすることで鏡に仕上げています。そのためガラスのツルツルな面が作品表面にそのまま残っています。やはり僕は「鏡を作る人間」なので、既成の鏡に手を加えるのではなく、ガラスという素材を加工するところから自分でやることで「写真としての鏡を作る」という意識をこれまでよりも強く持って制作した作品ですね。

 

実はこの展示に向けて僕はものすごく大きなレーザー加工機を購入し、総務省の許可を取った上で自分のアトリエで制作しました。レーザーを使うため、鏡の表面を彫ろうと思ってもレーザー自体が反射してしまうのですが、実はこの制約が今回の作品制作のヒントになっています。以前に制作していた鏡の上に印刷した作品では、印刷面を剥いでしまえば元の鏡の姿に戻ってしまうのに対して、〈tele portrait〉ではガラスの裏面に像が彫られているので、表面をいくら削っても像として僕が残した痕跡が消えることはありません。

 

岩垂:    例えばSNSが発達した現代では、一度発してしまった主張を消すことはできないと思います。それも一種のジレンマであり、そんなことを〈tele portrait〉にも見てとれるなと思いました。

 

井村:    このトークをしている中で挙がった「ジレンマ」の数だけでも分かるように、どうしたってこの世の中には葛藤が無数に溢れているわけですよね。

 

岩垂:    それでは、そろそろ質疑応答に移りましょうか。

質疑応答1:「図像に対する意識」と「美学・哲学的アプローチ」

質疑応答1:「図像に対する意識」と「美学・哲学的アプローチ」

客A:    井村さんは「実像を捉える手段が他にないために、再現度は低いけれど仕方なく鏡を扱っている」とおっしゃっていましたが、鏡を希望のように捉えられているのでしょうか? また、大学の学部時代は美学を学ばれていたとのことでしたが、現在の制作活動の中で美学や哲学の側面についてはどのようなことを考えていらっしゃるのかを教えていただきたいです。

井村:    特定の具象的なモチーフを扱うと、その視覚情報が特定の言語情報を生み出してしまうなと思っています。個人的な性格の話にはなりますが、僕自身が昔から写真に写ることに対して抵抗感を持っていて、例えば小さい頃の写真ではあえて変な顔をして写っていたり、今でも自分の顔を隠すために前髪も長くしているのも、注目を浴びることが怖いからなんです。常に人からの注目を浴びずに第三者的な立ち位置で生きていきたいという願望があるものの、アーティストである限り、ひいては社会人である限り、自分に注目が集まる機会をどうしても避けられません。こうした状況が自分自身に迫ってきたときに、僕は発言を抽象化してしまう癖があるなと感じていて、その傾向が作品にも表れているのだと感じています。

二つ目のご質問に対する答えですが、今は内面的な自己認識の面よりも、社会的なルッキズムを分析哲学的に紐解いていくことに興味があります。科学哲学者であり京都大学の宇宙総合学研究ユニットに所属されている清水雄也さんに協力を得てブレインストーミングをしているのですが、それを通して「分析的にものをみる」ことを学んでいます。それまで「哲学は詩的なもの」という印象を勝手に持っていたのですが、清水さんとお話することで「哲学とは分析するためのツールである」ということを知りました。具体例を出すのが本当に億劫になってしまうのですが、例えば2023年に公開した実写版『リトル・マーメイド』では主役のアリエルを黒人の役者が演じましたが、オーディエンスからは「ポリティカル・コレクトネス*4 なのでは」「白人の方が原作に忠実なのでは」といった意見が飛び交いました。その一方で、仮にその俳優があなたの近しい友人であったとしたら、「アリエルを演じたい」という彼女の人権を侵害してまでそのキャスティングに反対する権利はオーディエンスにはないと思います。このように、その事象をどの目線で捉えるかによってまったく答えが変わってくると思うのですが、こうした事象を一つ一つの角度から分析していくという特訓を清水さんとやってきました。


河西:    京都での個展では清水さんとの対談も行われるんですよね?

井村:    そうなんです。「明晰鏡」というタイトルで、京都 蔦屋書店のギャラリーで4月27日 〜 5月14日まで開催される個展なのですが、初日に清水さんをお招きしてトークイベントも行います。「明晰夢(めいせきむ)」という夢を見ているときに自分が夢の中にいることを認識している状況を表す単語を基に「明晰鏡」というワードを今回の展示タイトルにしていて、私たち自身が鏡の世界の中にいるのではないかと自覚させる展示を予定しています。

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個展「折衷案がもたらすNレンマ」展示風景|写真:タイラ キントキ

このコンセプトは、僕は何を見ても鏡であると思ってしまうことから生まれました。例えばKANA KAWANISHI GALLERYは前面がガラス窓で、中央にある引き戸はアルミ製なのですが、引き戸を開けるとガラス窓の後ろに重なるので、ガラス鏡と同じ構造になるわけです。このように、私たちが生きている現実世界は鏡がそこかしこにあるということをテーマにしたのが「明晰鏡」という展示です。

質疑応答2:井村・菅の間の「レンマ性」

質疑応答2:井村・菅の間の「レンマ性」

​河西:    他にご質問はありますでしょうか?

 

客B:    鏡というテーマに取り組まれる中で「自己の内面」と「他者から見た外見」のお話がありましたが、今日この場で井村さんと菅さんがお話をされる中で、まさにお二人が自己を互いの内面に発見されているように感じました。お二人が鏡の作品が並んだこの空間で今話される中で、例えばどんなことに「レンマ性」を感じたのかをお伺いしたいです。もしくはすでにレンマを乗り越えられている状態なのだとしたら、そこに至るまでにどのような具体的なプロセスがあったのか、そしてそのプロセスが今回の作品にどう反映されているのかをお伺いしたいです。

 

井村:    菅さんとの関係性でいうと、やはりはじめは僕からすると菅さんが「怖い」という印象でした(笑)。僕が学生の時から菅さんはすでに名前が知られている存在だったので、僕が一方的に菅さんのことを知っている状態でした。当時はまだ僕のアートに対する理解もそこまで深くなく、ひたすら現象を追って制作していた頃なので、菅さんがコンセプチュアルな作品を作っているというだけで少し怖いなという印象がありましたね。

 

一同:    (笑)

 

井村:    その当時はアートに対するアレルギーのようなものを持っていたのですが、今では菅さんが鏡の作品を作ってくれたことをありがたいと思えるようになりました。菅さんが鏡の作品を作ってくれたことで、これまで制作されていた作品でも、テーマとしている問題について菅さんがいかに深く考えていたかがわかるようになりました。悪い例を挙げるとわかりやすいかと思うのですが、例えばある作家が鏡や現象を扱った作品を作っていたとします。その人は普段面白いインスタレーションを作っているものの、例えばアートフェアなど販売が目的の場で普段のインスタレーションと比較するとすごく簡略化された現象を扱った作品を出してしまったときに、「いつもこんな姿勢でインスタレーションも作っていたのかな」と疑問に感じることがあるわけです。販売する作品であったとしても深く物事を考えて作っているものであると信じたかったけれど、「そんな安易に商品化のようにしてしまうんだ」と考え、悩んだりしました。

 

それに対して、菅さんが鏡の作品を作っていることを知った時はまったく逆で、感動したんです。「ということは、菅さんはここまで物事を深く考えていつも作品を作っているんだ」と知り、鏡の作品を入口にしてこれまで菅さんが作られてきた作品の理解も深められたんです。

 

菅:    え、じゃあそれまでは全然私の作品のことが伝わってなかったってことじゃん(笑)。

 

井村:    だって、その当時はアートにアレルギーがあったんですもん。僕はこの展覧会で初めて羅列の発表以外のいわゆる現代美術作家らしい展示をやっているんですから(笑)。

 

岩垂:    菅さんの作品のコンセプトを知った時に、そこから影響を受けた部分は何かあったのでしょうか?

 

井村:    先輩作家として、菅さんが制作に対する姿勢は見ていて勉強になるところがたくさんあります。実は今回の展示に向けたステートメントも一度菅さんにお見せしているんです。

 

岩垂:    そうだったんですね。何かアドバイスはあったのでしょうか?

 

井村:    印象的だったのは、「これってすごく優しいよね」という感想でした。

 

菅:    ステートメントを読んで、「性格が優しい人が書いている文章だね」と伝えました。色々な方面にすごく配慮している人なんだなということが伝わったんですよね。

 

井村:    作家として影響力が出てきた場合に、自分の発言によって扇動が起きてしまうのが怖いので絶対に有名にはなりたくないと思っています。例えば政治の問題に対して「僕はこう思う」と意見を呈した場合に、僕の意見に賛同する人間が出てきてほしいわけではありません。その意見がきっかけで各々がその問題について考えてくれるのなら嬉しいのですが、僕に従う必要はまったくありません。そもそも僕の発言はあくまで主観でしかなく、客観的に物事を見れるほど自意識過剰ではありません。サラリーマンの経験もあるので、ある役割を持った一ポジションとして「社内ではこういう対応が求められるのか」ということを学ぶ一方で、アーティスト活動を通して「アーティストもまた違った形で大変なんだな」と感じることもあります。

 

岩垂:    今のお話を聞くと「自意識過剰ではない」とはおっしゃるものの、井村さんご自身の自意識を感じます。外から見た自分自身を意識した上で言動を選ばれているような印象ですね。

 

井村:    先ほど言った髪型であったり写真に写らないようにするというのは防衛本能のようなものかもしれませんね。それが今までの展覧会の見せ方に表れていると思うんです。これまでの展示に向けたステートメントには事実の羅列と分析的な言葉しか書いておらず、今回のように自我を出したステートメントは初めてですね。

 

菅:    だからこそこれまでの展示では井村くんが実際にどんな人物なのかが見えてこなかったのだと思います。

 

客B:    おそらく井村さんと菅さんの初期の関係性にはレンマ性が存在していて、井村さんが先ほどおっしゃっていたように「菅さんが鏡の作品を作ってくれた」と思われたタイミングで何らかのレンマの解消が起きていたのではと思うんですよね。

 

井村:    マーケットの視点で考えると見た目のきれいなものが売れるとは思いますが、立体の表面が艶のあるシルバーというだけで「これは鏡の作品だ」と言われても、僕はどうしても納得できません。「鏡が周囲を映す機能を持っていること」があまりに当たり前なこととして認識されているからこそ、僕はこれまで「映らない鏡」という方向性に走っていたのだと思います。なので、菅さんの作品を見た時に「この人こそ鏡の作品を作る意味がある人だ」と思ったんです。それが僕側の解釈ですね。

 

菅:    私からすると、知り合った頃は井村くんのことをきちんと知らず「本当にすみませんでした」と感じていました(笑)。展覧会で発表し始めたのがわりと最近だというのも聞いて「こんなに完成された作品をいきなり出してきたんだ」とかなり驚いていました。井村くんの活動を知った今では、彼のことをとても尊敬しています。どんな作品に取り組むときもずっと研究し続けているような姿勢で、「自分の考えていることがどうしたら実現できるか」を突き止めるために、自分の手を動かしながら色々な手法を試しているのがすごいなと思っています。会う前は「外注に頼ってるホストみたいな人」という印象だったのに、むしろ私の方が外注に頼ってしまっているのではと思えるくらい、井村くんは自分自身で作っている人であり、それがアーティストのあるべき姿だなと感じます。〉

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脚注

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*4   ポリティカル・コレクトネス(英: political correctness、略称:PC、ポリコレ):社会の特定のグループのメンバーに不快感や不利益を与えないように意図された政策(または対策)などを表す言葉の総称 (Wikipedia参照)

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