表良樹個展『等身の造景』開催記念 トークイベント
河口龍夫 × 表良樹
「等身大からの精神の背伸び 」
■目次■
Page 1
■〈Turbulence〉と〈Tectonics〉
■ 河口龍夫と中原佑介
Page 2
■ 学生時代の制作
■ 作品の中心について
Page 3
■ 時間の非可逆性
Page 4
批評の重要性
河口:
今、客観的に自分の作品を見るという批評や、作品をみてその当時の人がどう感じたかを批評で残すというが、衰退しています。これは非常に大変で、情けない。どうしたら良いのかなあ。
だから、僕は依頼があれば自分で文章を書くようにしている。出来るだけ客観的に書く。僕は27歳の時に中原佑介さんと出会ったんですが、彼は恐らく僕のほとんどの作品を見ている評論家です。中原佑介さんは、僕の作品に興味がなくなったら、全く無関心になると思います。だから中原佑介が関心を持つような仕事をし続けるというのは、ひとつ自分に課さなきゃいけないものも要求されるんですね。中原さんは創造としての批評をする人で、単に作品を批評するんじゃなくて、創造に介入したいわけなんです。刺激を与えたいんですね。テキストをお願いしても、中原さんは「河口、何するの」って一切聞かないんです。だから原稿がものすごくスリルがあるんです。ものすごい緊張感。今そういう言葉となかなか出会うことがなくなってしまった。そこら辺はどうしたら良いのかな。僕は自分の中に批評家じゃないけど他者を持とうと思ってます。河口龍夫を冷ややかに見ている河口龍夫がいる。
河西:
河口:
河西:
河口:
河西:
河口:
河西:
河口:
河西:
今お配りしてる小さなカタログが、『1963年の銅版画より』という展覧会のものなんですが、ご自身の作品を本当に別の人かのように冷静に客観的に論じられています。
できたら他の人に書いてもらいたいんだけどな(笑)。ひとつ別のアイデアもあって、ペンネームで「最近の河口は....」と書くのも考えたんだけど。バレたらね(笑)。
すこし恥ずかしいですね。
そうすると批判も書けて、矛盾も書けるんだけど。どうしたら良いかね。例えば、『関係ーエネルギー』という仕事をピナール画廊でやりましたが、その時はもう、ほとんどの評論家が来ましたし、作家も来ました。興味のある仕事は全部見てくれました。そこら辺の芸術に対する関心が薄らいでいるのか。
今聞きながら思ったんですけど、時代によるメディアの影響というのもあるのでしょうか。デジタル世代は、情報が紙ではなくデバイスに移行しています。書くのも読むのも労力がいることで、すごく重要なことなんですが、そういうことを面倒臭がる時代になってきているんじゃないかと思ったりしました。
情報というものに関して、そういう側面もひとつあるかも知れない。学生は、情報になる作品を作り出すんです。僕らの時代は全く情報にならない。だから言語化するのにすごく努力する。言語化した時に新しい言葉が生まれる。そういうことをやっていたけど、今は自分の芸術を自分で守る時代ですね。誰も守ってくれない。いや、大変だ。僕はもうすぐさよならだけど(笑)。
あと「私」ということを話したけど、姿形としての「私」はものすごく重要。ところが表現においては、「私」というのはすごく邪魔だと思います。つまり河口龍夫は河口龍夫をどうやって超えられるか。僕は、自分という牢獄に入っていると思っていた。だからその牢獄から脱出できるのが芸術だと思っていた。パフォーマンスじゃないけど、何度か突然、バーン! と飛んだりしたこともあるんですよ。体だけ残って、精神だけパーっと飛んでいくことを考えて行動に移したこともありました。河口龍夫という牢獄から、どうやって脱出できるか。だから、「私」というものを表現することに僕はほとんど関心がない。「私」を表現したって何にもならない。むしろ「私を超えて表現するもの」にどうやって出会えるかですね。
それにはやはり、自然界に存在している法則などを借りて自分を超えていくということでしょうか。
そうだね。僕が当時、表の作品を批評したのはそういうことがあったから。だけど本気になって批判して潰してもいけないと考えてもいます。教育者ですから、育てなきゃいけない。サービス業ですね。
私は表さんの過去の作品を、今日初めて拝見し、すごくびっくりしました。学生の頃にこれだけ多様な表現を経てきたことと同時に、今の作品からは「自分」というものは全く見えないし、それをなるべく消そうとして制作している印象のあるアーティストです。あまり公表する話でも無いのかもしれませんが、例えばこちらの
〈Turbulence〉シリーズでいうと、ギャラリーの小さな部屋の一番奥の、直径60㎠の暖色系の作品がシリーズで一番最後につくられたものですが、一番本人の意図が抜けて、いい具合に自然現象を引き出せたっていうので本人が気に入ってるんですね。まさに「自分を消す」という方向に向かっていることを表していると思います。
破壊の先に生まれる造型
あと、もうひとつ褒めると、彼はつくれるんです。そして「つくる」ということのひとつの方法として、破壊することに辿り着いた。破壊が創造に繋がるということに、気付いたんですね。この作品(Tectonicsシリーズ)がまさにそうです。映像を見ると、なかなか壊れないような高さから落としていることが気になりますが。木っ端微塵にはしたくないのかも知れないね。破壊も、造形物として残るものだから、表現のレベルと同じ。「つくる」ことと同格のレベルで「破壊」をどのように扱うかを探り始めたというのが、最大の表の成長ですね。褒めすぎたかな?(笑)
河口:
表:
「破壊」の部分ばかりがすごく注目されて、作品を壊していくこと、壊すことで完成する部分をよく言われるのですが、そうではなく、壊してからそれをまた置き直して配置して組み合わせています。その行為が僕は一番重要だと思っているのです。だから壊れたものというよりも、割れたものがまた構成され、その先に生まれる造形物という意識です。

Tectonics_drums #1
2019 | polyester resin,oil | size variable
©︎ Yoshiki Omote, courtesy KANA KAWANISHI GALLERY
形をつくるために、自分の力じゃないものを借りているというだけかも知れないですね。
そうです。先生から学んだのはそういうことです。
河西:
表:
河口:
芸術そのものを破壊したといえば、やはりダダ*5ですね。しかし破壊しきれなかった。芸術に似たようなものがなかった時代というのは無いんです。人間は役に立つものが大好きです。電話が手に入ると絶対手放さない。便利なものは形態を変えてでもずっと持ち続けて、捨てない。だけど、何の役にも立たない芸術というものを、なぜどの時代も持ち続けていたのかというのが、重要なんですね。僕は最近スティーブン・ホーキング博士の本を読んでるんですけど、地球外生物と出会った時に一番最初に聞きたいのは、「地球には芸術ってのがあるんです。おたくの星にはそういうものがありますか?」と聞きたい。絵画かも知れないし、彫刻かも知れない。いずれにしても、その宇宙人を支えている精神に影響を及ぼすものをつくっているかどうか。それを知りたい。
河西:
ああ、知りたいですね。久しぶりに話だけ聞いて鳥肌立ちました。