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内倉真一郎 個展『浮遊の肖像』開催記念トークイベント

姫野希美氏 × 内倉真一郎

〈ポートレイト〉

 

ポートレイト

私が好きなのは、あの携帯を持っている女の子です。あれはいいですよね。なんというか、今このとき地球上から浮いてきた感がすごくあるなと思って。この作品はシンプルなんですけどとても好きなんですよね。その下のボートは、なんだか三途の川を渡っているような感じがするじゃないですか。もう重力からは抜けて、どこかそういうところへ行きつつある感じが強いなと思います。
 

姫野: 

『浮遊の肖像』©Shinichiro_Uchikura_011.JPG

The Floating Portrait #020
2022 | archival pigment print | 592 × 394 mm
©︎ Shinichiro Uchikura, courtesy KANA KAWANISHI GALLERY

『浮遊の肖像』©Shinichiro_Uchikura_021.jpg

The Floating Portrait #014
2022 | archival pigment print | 592 × 394 mm
©︎ Shinichiro Uchikura, courtesy KANA KAWANISHI GALLERY

それから、この展示空間にはふたり組の作品がいくつかありますね。こちらの女性おふたりはどのようなご関係があるのでしょうか。
 

姫野: 

このおふたりはご友人同士で、それぞれ旦那さんがいます。ただ、撮影依頼をしたときに、僕にはただの友人というより、お互いに好き同士で恋愛関係のように見えたので、このポージングは僕が提案しました。人間は男と女だけじゃなくて、いろんな形があるよねということです。
 

内倉: 

溶け合うかのようにひとつになっていますよね、血のつながりがあるようにも感じます。
 

河西: 

そうですね。それくらいの親密な関係に見えました。
 

姫野: 

『浮遊の肖像』©Shinichiro_Uchikura_010.jpg

The Floating Portrait #009
2022 | archival pigment print | 592 × 394 mm | ©︎ Shinichiro Uchikura, courtesy KANA KAWANISHI GALLERY

『私の肖像』の最後には、セルフポートレイトが1枚あるんです。私はそれが名作だなと思っているのですが、こちらのおふたりの女性の作品を見ながらそれを思い出しました。

上海の作家で、キュレーターのジョアンナ・フーさんが、本書で内倉さんのポートレイトについて書かれているのですが「このセルフポートレイトに内倉のアーティストとしての覚悟や思考をみる」というような内容を書いてくださっていました。そういう意味で、内倉さんは真の自由さとか、あるカテゴライズされたものとか、関係性に囚われない部分がすごくあるなと思っていて、それが今回の『浮遊の肖像』のなかでもすごく息づいているなと思うんですよね。今後どうなっていくのかなと楽しみですね。

 

姫野: 

内倉真一郎の肖像写真は、人間の顔と魂、外見と精神の間に裂け目を入れ、人間の皮膚の下に潜んでいる欲望と夢を垣間見させ、アイデンティティやジェンダーの複雑さと向き合うことを可能にする。

(中略)

内倉もまた、存在を巡る壮大な哲学的命題に、セルフポートレートで応えている。本書の最後の肖像として、内倉は他のすべての肖像とは相容れなさそうな、自身のヌードの肖像を提示している。これは彼の制作における徹底した率直さを示すだけでなく、必ず正真正銘のアートの作家として立とうという勇気をも示している。

彼自身のヌード写真には、男性の性徴はわざと隠され、両手の中の花とワイン、暗に示されたポーズにより、ジェンダーの流動性が表されている。ここで「自己」は、時代に許容されるかどうかは別として、世俗的な世界に挑戦し、突き破ろうとしている。言うまでもなく、多元的、包括的、複雑化する世界では、ジェンダーの平等と流動性が時代の重要な精神として、各国に広がっている。日本は無論、その時代精神をあたたかく受け容れている国の一つだ。しかし、個人の選択の自由という意味では、時代や環境との戦いは、人間の本質や個人の力を主張するものであることに変わりはない。数十年前に遡れば、このような写真を撮るのはもっと勇気の要ることだっただろう。内倉が撮った自らのヌード写真には、1980年にアメリカの写真家、ロバート・メイプルソープが撮影したセルフポートレートと同じ精神が見てとれる。化粧や着こなし、表情、身振りなどによって男女の違いが入り混じった写真の中で、自らのジェンダーとアイデンティティが曖昧になっており、社会の中で確立された男女の概念に疑問を投げかけている。

内倉のセルフポートレートは、このシリーズの他の肖像作品とはスケールが異なるが、個々の人間の存在や人間性の複雑さを可視のものとして表現しようとする点において、創作の目的が一致している。すなわち、さまざまな肖像を通して、人間の外見と魂の裂け目を表現しようとしているのだ。
ジョアンナ・フー(「肖像ーー外見と魂の裂け目ー一」より一部抜粋)

 

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個展『私の肖像』(2020年、KANA KAWANISHI PHOTOGRAPHY)展示風景
©︎ Shinichiro Uchikura, courtesy KANA KAWANISHI GALLERY, photo by Yoshiaki Nakamura

ありがとうございます。褒められると伸びるタイプなのですごく嬉しいです(笑)。
 

内倉: 

(笑)
 

一同: 

それを伸びやかに作品にできている人はそんなにいらっしゃらないですけど、内倉さんの場合はそれがはじめから自分のなかにありますよね。それは素晴らしいことだと思いますよ。
 

姫野: 

質疑応答

〈質疑応答〉

 

ではせっかくなのでご質問などある方いらっしゃいますか?
 

河西: 

内倉さんは続々と作品を作っていらっしゃいますよね。前回の作品の制作期間も、そのほかのシリーズの制作と重なっていたとお話されていましたが、今まで撮影をはじめてからやっぱり違うなと撮らなくなったシリーズなどもあるのでしょうか?
 

質問者1: 

たしかに、制作のスパンが早いというのは言われたりします。特に作品を本として出版するとなると、そういう声はありますね(笑)。でも僕のなかではそれは普通のことなんです。作品を制作している作家にはいろいろな方がいますけど、例えば僕の場合は、写真館をやっているので週に一回水曜日だけお休みなんです。その日は子供たちが4時ごろに帰ってくるので、そのあとに家族でイオンに行って遊ぶのがルーティーンで(笑)。だから、僕が自由に動けるのは6時から15時まで。そこが勝負なんです。

その時間に何をどう撮ってやろうということはもう決めているので、それまでの1週間は仕事に集中して、ふつふつと溜まった言いようのない作品への想いをその制作の時間へ向けるんです。好きなものなら徹底して集中して撮るようにしています。他の作家さんで、1つの作品をつくるのに1年以上の時間をかけている方もいらっしゃいますけど、それは僕には関係ないんですよね。だから、面白いと思ったらすぐに撮ってみる。最初にカラーかモノクロかなどを決めて撮ってみると、始まったら止まらなくなるという感じで、またすぐに撮りたくなるけどその想いを溜めて、次の週に向けるということをつづけているだけです。

 

内倉: 

KKP『浮遊の肖像』トークイベント_004 (1).JPG

photo by Yoshiaki Nakamura

撮ってみたけどやっぱり止めたということも、もちろんあります。田舎だろうがどこであろうが面白いものはどこにでも転がっているけれど、そのときの自分には面白いものが撮れなかったということですよね。だから撮れなかった自分も素直に受け止めるということを大切にしています。そしてまた次の撮影まで溜めていく。良いものが撮れなかったときは、そのあとに家族みんなでご飯を食べにいっても言葉数が減ります(笑)。ただ、逆にいいものが撮れたときはすごく上機嫌になります。
 

内倉: 

そうなんですね。すごくわかりやすいですね(笑)。
 

姫野: 

今のお話は私にも刺さりました。
 

河西: 

そうですね。写真館の仕事がありながら、今までの作品もこうやって本にまとめていることがすごいですよね。しかも、本にすることで今までの作品のつながりが見えてきますから。
 

姫野: 

他にご質問のある方はいらっしゃいますか?
 

河西: 

光を下から当てることで空間の認識を狂わせるという手法がとてもシンプルで力強いなと感じました。宇宙空間に浮いている惑星のように見えて、姫野さんのお話にもあったように人間の地平ではなく宇宙へ弾き飛ばされているようにも見えて。僕もこの作品を見ていて、じわじわと癒される感覚がしました。ひとつ質問なのですが、俯瞰してご自分を撮るということを『私の肖像』ではされていますが、今回のシリーズではされていないのでしょうか?技術的にも難しいと思うのですが、そういったご予定があるかお聞かせください。
 

質問者2: 

ありがとうございます。展示はしていないですけど実は撮っているんですよ。「こいのぼりと僕」という感じで。写真館なのでいろんなものがあるんですけど、2.5メートルくらいのかなり大きなこいのぼりを使いました。ただ、撮ってみてなんか違うなと、こいのぼりじゃないよなと思いまして(笑)。それをやりながら、セルフポートレイトシリーズをこの年でやったらどんなことになるのかなと考えていたりもしました。
 

内倉: 

なんでそこで「カメラ」を使わないんですか?
 

たしかにその質問はもっともですよね。だって内倉さんといえばまさに「カメラ」ですからね。
 

河西: 

僕はカメラを持っている姿が似合わないなと自分では思っているんです。
 

姫野: 

内倉: 

(笑)
 

一同: 

すごく申し訳ないんですけど僕のなかでのカメラマンのイメージってこれなんですよ。必要以上に機材やカメラをたくさん持って、なぜかいつも脚立もあって、着ているネルシャツの裾がフレームに入らないようにきちんとパンツに入れていて。頭にバンダナを巻くのもそうですけど、僕のなかでのカメラマンは本当にこのイメージなんです。だから、僕がカメラを持つのは違うかなと思っていたんです。例えば、ほかの方が俯瞰でこのシリーズを撮ってみたら、すごくカッコいい方がカメラマンとして写っているかもしれませんけどね。
 

内倉: 

『浮遊の肖像』©Shinichiro_Uchikura_020.JPG

The Floating Portrait #021
2022 | archival pigment print | 592 × 394 mm | ©︎ Shinichiro Uchikura, courtesy KANA KAWANISHI GALLERY

いまのお話は結構衝撃的でした(笑)。ただ、『私の肖像』でのセルフポートレイトでワインと花を持っていたのは、そういうお考えがあってのことだったんだなと納得しました。
 

姫野: 

そうですね、なんだかとても腑におちました。それでは、このあたりでトークを終了とさせていただきます。みなさまありがとうございました。
 

河西: 

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文・編集・ウェブアーカイブ/小林萌子 (KANA KAWANISHI ART OFFICE LLC.)
文責/河西香奈 (KANA KAWANISHI ART OFFICE LLC.)

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