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内倉真一郎 個展『浮遊の肖像』開催記念トークイベント
姫野希美氏 × 内倉真一郎
意識からこぼれ落ちた瞬間
〈意識からこぼれ落ちた瞬間〉
ひとつは「浮いてきている」というあり方と、あとは「目を閉じている」ということが、やはりポートレイト写真としては特別な感じがしますよね。目を閉じているものって特にないですから。なぜ目を閉じたかったんだろうということも気になっています。
姫野:
この展示空間にまず入ってきてこれらの一群をみると、圧倒されますよね。こういったポートレイト写真をみたことがないですから。
河西:
これに関しては早い段階で決めていたのですが、はじめに脚立にのぼって撮ろうとしたときに、被写体の人がこちらをみていて目があったんです。そうしたら、僕が思い描いていた「浮遊感」や「宇宙的目線」、「標本的なもの」が、すべて崩れ落ちたんですよね。やはりポートレイトを撮っていると、人間の目ってすごく強烈で、目を開けるだけで違うメッセージが含まれてしまうんです。客観的な人の見え方をより伝えやすくするために、今回は皆さんに目を閉じてもらいました。
内倉:

個展『浮遊の肖像』展示風景
©︎ Shinichiro Uchikura, courtesy KANA KAWANISHI GALLERY, photo by Yoshiaki Nakamura
今が小学校5年生なので、このときは3年生くらいですね。
内倉:
やはり目を閉じていると、自意識から少し抜け出せる感覚がありますよね。撮っている人と、撮られている人が、目が合っているのではなくて、撮られている人が目を閉じていると、見られているという状況から自由になれるじゃないですか。そういう意識の持ち方と、先ほどから話にでている浮遊感というものがリンクしているような気がします。というのも、重力から自由だなという気がしたんですよ。
どうしても人が帯びてしまう重力から、これらのポートレイトが自由な感じがあって、そこがこの作品の特別なところなんだと思うんです。内倉さんは『私の肖像』のときから、500枚、1000枚とシャッターを切りながら、撮られている人たちが自分の意識から離れて、自分でも意識していない瞬間をセレクトしていますよね。つまり自分が自分でなくなる瞬間をこの『私の肖像』では見せてくれていて。今回の『浮遊の肖像』でも、人のもつ自意識とか、あるいは人が人であるところの重力みたいなものから抜け出した瞬間が込められているのかなという気がしています。
そういう意味で『私の肖像』と今回の『浮遊の肖像』が非常に結びついているところがあり、内倉さんが捉えたいのはそういう「見る・見られる」の関係からでてくる意識とかではなく、そこからこぼれ落ちてくる瞬間だったりするんだろうなと思いました。あとは意味づけからも切り離されてこの一瞬の動作や見え方があるんだろうなという気がしました。
姫野:
『浮遊の肖像』の作品も少しご紹介したいのですが、こちらは内倉さんの娘さんです。実はこの会場のなかにも娘さんの作品がありますよね。前回の作品のときはおいくつだったのでしょうか?
河西:

『私の肖像』より
©︎ Shinichiro Uchikura, courtesy KANA KAWANISHI GALLERY
もしかすると、これは肉眼では見えていない瞬間かもしれないですね。カメラのシャッターのスピードだからこそ残った瞬間であって、そういうことが内倉さんの作品の面白いところだなと思うんです。見ようとして見たものではないので。
姫野:
これはプールから帰るとき、濡れた髪をかきあげた瞬間をみて「あっ」と思い、その場で車に乗せていた黒い布を張って撮影されたそうです。これだけみると、とても自分の娘を撮っているとは思えないような色気を感じる瞬間ですよね。本人もこういう自分を演じようとは思っていないでしょうから、先ほど姫野さんがおっしゃった「ふとこぼれ落ちた瞬間」なのでしょうね。
河西:
そこにいるのが娘さんですか?
姫野:
そうですね。このとき実は、写真を撮るときにくしゃみをしたんです。これはくしゃみをする直前の表情なんですよね。そうでもないと、小学校3年生にあの表情は絶対にできないですから。フィルムカメラだと連写では撮れないので、デジタルカメラだからできる切り口なんです。
内倉:
そうです。小学校5年生になって、給食当番の班長を任せてもらったんです。本人は嫌がっているんですけど、僕はちょっと嬉しくて(笑)。やっぱり少し変な顔をされるんですけど、学校の先生に、僕こういう写真を撮っていてと説明して、1時間だけ鍋を貸してくださいとお願いして撮りました。
内倉:

The Floating Portrait #007
2022 | archival pigment print | 1188 × 792 mm | ©︎ Shinichiro Uchikura, courtesy KANA KAWANISHI GALLERY
宗教画と仏像
〈宗教画と仏像〉
今回、あらためて展示している作品を見て、じわじわくるものがあったんですよね。
内倉:
その感覚が、どこからくるのか知りたいです。どういう「じわじわ」ですか?
姫野:
自分ってなんなんだろうなと思ったんです。自分の個展をみるとき、特にお客さんがいないときは、まさに俯瞰的に作品を見れますよね。次の作品へつながっていく、制作のもとになる現場でもあると思うんです。
先ほどから「宇宙的な目線で」などと言っていましたが、見れば見るほど、自分は神様でもなんでもないことがわかってくる。じゃあ、自分ってなんなんだろうと今日あらためて思ったんですよね。なんか、人間が人間を撮るって凄く不思議だなとあらためて思ったんです。だから人って面白いなと思うのはやはりそこなんですよね。
ポートレイトはいろんな切り口がありますよね。目を開いてカメラ目線で笑顔を見せたり、隠さなくてはいけない気持ちが思わず顔にでるけど、表情としては無表情だったり。例えばそんな「無」のなかにある隠された感情を写しだすような、その人の本質を写真で撮るのは、たぶん無理だろうなと僕は思うんです。
内倉:
それは私もそう思いますよ。カメラって徹底して表面しか写らないというところに特徴があるわけで、何を持って「本質」といえるかということはすごくむずかしいと思います。だからポートレイト写真が、その人の本質を写すみたいな見方をされることもありますが、それは違うと思うんですよね。むしろどのように見ているのかという「視点」の方が際立つときの方が多いような気がしますし、そもそも人の内面というものはなかなか触れ得ないものじゃないですか。内倉さんはこれらの作品を見て、自分はなんなのかと考えていたんですね。
姫野:
そうですね、今日ずっと。しかも、このギャラリーは昼間はこの壁の裏から自然光がかなり差し込むので、昼と夜とで作品の見え方が変わるんです。だから、この壁から逆光の光が入ってきて、見ているとなんだか神々しく見えてきて。自分の作品なんですけど、そういうことを忘れながらただただ見ていました。
内倉:

個展『浮遊の肖像』展示風景
©︎ Shinichiro Uchikura, courtesy KANA KAWANISHI GALLERY, photo by Yoshiaki Nakamura
前に内倉さんからこのシリーズの一部を見せていただいたときに、なんだか少し宗教画を思わせるところがありますねとお伝えしたんです。例えば双子の赤ちゃんや、あるいはこのラグビーですら、ある種の宗教画を思い起こしたりしませんか?
ひとつは西洋によくありますが、キリスト教に関係した場面を思い起こさせる。それはもしかすると「浮遊感」が天上界と響きあうこともあるかもしれませんが。何か特定の宗教性ではなくて、帯びている精神性というか、憧れというか、憧憬*1(どうけい)というか、そういったものが重なってくる感覚があるなと思ったんです。
特にこのラグビーの作品ですが、ラグビーだとこのポーズは珍しくない場面でも、俯瞰から撮ったことによって、なにかひとつそういったものが浮かび上がってくるような気がするんです。いくつかの写真で同じことを思って見ていました。宗教絵画を積極的に参照しながら作品をつくるタイプの方もいますよね。内倉さんはそういう方へはいかないと思いながらも、この取り入れ方はとても興味深かったです。
姫野:

The Floating Portrait #004
2022 | archival pigment print | 1188 × 792 mm
©︎ Shinichiro Uchikura, courtesy KANA KAWANISHI GALLERY
