鈴木隆志個展「人間ホイホイ」トークイベント
「あらゆることが、なんとなく: 無意識と普遍性を考える 」
自由の定義とは
■目次■
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全然関係ないのですが、津村さんがこの間展示していた作品について聞きたいことがあります。
*津村耕佑展「RECOMBINATION」
https://www.spiral.co.jp/e_schedule/detail_2242.html
津村さんの作品では一度分解したものを再構築していますよね。そこに面白さを感じじるのですが、なぜ面白いのかを全然まとめられていないんですよね。作品ではある物を分解して小さなピースにして、それを別のものに覆っていますよね。その「覆う」という行為が服に似ているとは思うのですが・・・
《3D Mesh Puzzle Dress》
津村耕佑展「RECOMBINATION」(スパイラルガーデン、2017年)
© Kosuke Tsumura
鈴木くんが言っていたような一種のカタストロ*3フのように、スリットとフックがあるとなんとなくはめていきたくなるっていう衝動が生まれるんですよね。割と自分はずっと手を動かしている人間なので、その延長線上にカタストロフがあるんじゃないかなと思います。
作品なのでフレームに収めてはいるけれど、これが最終形でもなく、フラクタル*4の原理みたいにどんどん増殖して、これで世界が出来たっていいわけですよ。「作品とはこうだ」という概念があるからこの四角いフレームに入っています。ただし、その概念があるからこそ自分の作品の自由さが際立つのかなと思います。
作家や美大生から提供された絵画をパズルピースの型を使ってくり貫き、津村の見立てで再構成した〈REART〉シリーズ
© Kosuke Tsumura
建物も服も使っているからこそ、わかりやすいんだと思います。
完結のイメージがあるわけじゃないんですよね。作っていったらこういう形になった。ただ自由とはいえ、作っている中で自分の趣味が反映されている気がします。色を合わせようとしていたり。
あとは、パズルの形というのは決まっているから「どこにはめるべきか」というルールは存在しています。だけどルールを作るとむしろそれ以外の部分では自由に作ることができて、広がりを感じると思います。なのでルールって大事ですよね。
その通りです。この作品はまさに津村さんがおっしゃっていたことに当てはまるのですが、あるルールや枠組み、パターンを作ると自由さに広がりが出てくるのだと思います。
ルールを定めると、その間に垣間見える隙間に自由を見出す、という仕組みが発生する気がします。逆に言えば、いきなり自由が与えられるとむしろ自分の好きなことに縛られてしまって不自由になってしまうんじゃないかと。
僕が藝大生とかを見ていて思うのは、縛られていてかわいそうだな、ということですね。相当な天才でなければあそこから良いものは作り出せないんだろうなと思います。
《Dead Leaves》
《Tomorrow’s Continuation》
津村さんの子供時代
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また別の質問ですが、津村さんには「自分ルール」があるのかを聞きたいです。絶対必要ないけど決まっているルールのようなもの。例えば僕の個展のタイトルにもなっている、「白線から落ちたら死ぬ」とか。
小学生の頃によくやるやつね(笑)。
そうです。ジンクス、ルーティーンとか。例えば僕の場合は、階段を降りるときは線の一番右を踏むとポイントアップする、とか(笑)。
僕は左利きなので、人の左側に必ず入るね。
なるほど。ところで、子どもの頃ってどんな子でした?僕の中のイメージだと津村さんはやんちゃで、自転車にポリスと書いて旗立ててるような子ですが(笑)。
いつも何かしらを作っていたかな。木片でブーメランを作ってみたり、イカダを作ってみたり。冒険小説に出てきそうな「道具を作って探検に行く」っていうのに憧れてました。あの頃ってテレビでヒーローがたくさん出てきた時代で、彼らのようになりたかったのかな。ヒーローみたいな格好して、彼らが持っているアイテムを作ってたかな。そういう興味からファッションデザイナーとしてのキャリアが生まれていったのかなと思います。
一般に向けて作品を発信することについて
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僕は、《Potograph》シリーズは現代アートの文脈の中でもブレイクする可能性を秘めていると思うんですよね。ただ、僕はいろいろなことを知っているから知識を使うことで作品を理解することができるけれど、一般人が見た時に「あの作品はなんなんだろう」という疑問を持つのだろうかとも思います。「これは何の素材でできているんだろう」っていうような興味を持つレベルにまで達するのかなと。
《Potograph #54》
2016 | unique diptych | type c print, resin | 86 × 121 mm (each)
©︎ Takashi Suzuki, courtesy KANA KAWANISHI GALLERY
でも、スナップ写真にはみなさん馴染みがあるので「これは写真なんですよ」と説明すると、それが興味を持つ入り口になるようですね。
ギャラリーに来る人はアートが好きだから興味を持つと思うけれど、作品が一般的な市場に出ていて、例えばギャルが見た時に理解できるのか、興味を持つのか、と疑問に思うんです。
その点、津村さんは一般大衆に伝えようと思っているのでしょうか?僕の場合は、そこそこ経験と知識を積み上げてきた人たちに見てもらいたいと思っています。例えば科学の場合、立派な研究者は一般向けにわかりやすく説明しようとしないじゃないですか。そういう役目はでんじろう先生*5みたいに面白おかしくやる人に任せて。アートに置き換えると、ギャラリーがその役目を担っていると思います。なのでその分研究する人は、一般に向けてわかりやすく説明する暇があるのならその時間をもっと研究に費やすべきだなと思うんです。
基礎研究とその結果がどこまで市場にフィットするのかというのが問題ですよね。
僕の場合はデザイナーという気質なので、基礎研究的な部分を突っ込んでいく必要もあるなと思いつつ、これは人にどう伝わるんだろうという関心もあります。さっき話した僕の展示を例にすれば、作品の素材、プロモーションの方法、空間など全部にその考えが影響を与えるなと思います。
今後、展示をしていくべきか
僕が用意した質問の一つが「今後、展示はするべきか」です。6年前くらいに僕の嫁さんがファッションデザインをやっているので津村さんに「ファッションショーってやったほうが良いですか」と聞いたら津村さんは「そんなのはやっても意味がない」と言ってましたよね。
それは極端な発言だったかもしれないけど、やっぱり新しい方向に転換していったほうがいいんじゃないの、と思うんですよね。もちろん世の中の仕組みが現存の方法に慣れているから手っ取り早い思うけど、それは果たして何かを新しくするのか?と疑問に思います。なので展示はしたほうが良いと思うんですけど、「展示とは」ということを考えたほうが良いんじゃないかな。
そうですね。
「展示」というよりは「表現」として捉えるべきで、当たり前のように壁にかけているけど、壁がなかったらどう表現するのか、ということを考えるべき。
京都のアンテルームでの個展の時、地面にお皿っぽい作品を展示していました。これは熱で滞留させて、そこから形を作って崩していく作品で、僕が一番好きな作品でした。周りには壁にかけたほうが良いと言われていたのですが、僕は作っている雰囲気を出したくて床に置いておいたんですね。そうしたら、次行った時に踏まれていました(笑)。
《btDisturb_cell》
2015 | © Takashi Suzuki, courtesy KANA KAWANISHI GALLERY
それはいけなかったの?
よくないです(笑)。足跡が付いてました。
例えばインドの仏教徒は砂で曼陀羅を描きますよね。でもこれって行為自体は祈りですけど、終わったら全部壊してしまうから、そう考えると表現が残るべきか必ずしも残らなくて良いのかといのも考え方次第かなとも思います。考え方が多様な今の時代だからかもしれないし、もしくはずっと前からそうかもしれないし。
今は何でも残りすぎですもんね。ふと思い出したのですが、スナップチャット*6っていうものが流行ったの知っていますか?
知らないな。
一度読むと消えてしまうチャットです。情報って、消えないのが当たり前じゃないですか。それをあえて消すことで流行ったのが面白いなと思います。
あとは、情報が増えすぎると情報自体の価値がなくなってしまいますよね。そういう特性は現代だからこそですよね。情報のジャングルのようになっていて、情報から遮断されたい自分という存在もいたり。
ところで、何の話をしていたんでしたっけ?
展示をすべきかどうか。展示はすべきだと思いますね。
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*3 カタストロフィー理論: 生物の形態発生や言語の構造などのあらゆる現象のモデルとして、力学系を土台とした構造安定性とその不連続な分岐(これをカタストロフという)を用いることで普遍的な説明を行う理論を言う。不連続な現象を説明する画期的な理論として、日本でも一時注目を浴びた。https://ja.wikipedia.org/wiki/カタストロフ
*4 フラクタル: フランスの数学者ブノワ・マンデルブロが導入した幾何学の概念。ラテン語 fractus から。図形の部分と全体が自己相似(再帰)になっているものなどをいう。https://ja.wikipedia.org/wiki/フラクタル