長谷川寛示個展『My Sútra』開催記念 トークイベント
山田奨治 × 長谷川寛示
■目次■
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山田:
鈴木大拙は1958年にアメリカを去りましたが、翌年その後を追うように鈴木俊隆(すずき・しゅんりゅう)というお坊さんが、日本からアメリカへ渡ります。先ほどご紹介したサンフランシスコの日系曹洞宗寺院の桑港寺に住職として赴任しました。
恐らく鈴木俊隆にとっては思いもよらなかったことだと思いますが、1959年はまさに大拙の禅が大衆化しビートジェネレーションが禅的なものを展開していたので、その思想の影響を受けた人々が日本の禅寺院に押しかけていきました。いわゆるビートジェネレーションからヒッピー*16へと時代が変わろうとしている頃ですので、ヒッピー達が禅寺院に来るということになります。
今まで日系人の為のものだった桑港寺に、多くの非日系人が押しかけ、その数は日系人を超えるまでになりました。そこで、西洋人に禅を教える為の施設として、禅センター*17が作られることになります。
San Francisco Zen Center
©︎ San Francisco Zen Center, photo by Minoru Aoki
「Zen Mind, Beginner's Mind*18」という本がありますが、これは鈴木俊隆の弟子達が出版したものです。この本が、英語で出版された禅関連本の中で最も売れた本だと言われています。当時のサンフランシスコ禅センターの写真がこちらですが、この建物は現在も禅センターとして使われています。
「Zen Mind, Beginner’s Mind」
San Francisco Zen Center(撮影:山田奨治)
山田:
この禅センターは私が「美術手帖」の記事を執筆するにあたり取材させていただいたところなのですが、特徴的だったのは指導者達が基本的にユダヤ教徒の人が多いということです。ユダヤ教を捨てずに禅を教えるという不思議な状況が観察されました。
また、ここでは集団指導をとっているということも特徴の一つです。日本では絶対権力者の老師がいて、その人が言うことが絶対なのですが、色んな経過がありましてサンフランシスコの禅センターでは複数の指導者たちによる集団指導を行っています。そして、ここで禅を教えている人たちは、ほとんどの人がビジネスの経験があります。過去に映画やハイテク産業など様々なビジネスに関わっていて、その後禅センターの門を叩くことになるという経歴の人が多かったようです。そして、禅センターの内部はこのようになっています。様々な種類の仏像が置いてあります。色んな文化が混合していますね。(笑)
禅センター内部(撮影:山田奨治)
長谷川:
山田:
仏像も仏具も、かなりランダムに配置されていますね。(笑)
真ん中に置かれているのは、ガンダーラのような石仏です。そしてこの下に禅堂がありますが、曹洞宗なので壁に向かって座るように座具が並んでいます。曹洞宗は壁に向かい、臨済宗は壁を背にして座るので、座り方で見分けができます。
さらに一つ面白いのは、よく西洋の教会などで門の前にお祈りなどのスケジュールが貼ってあるのですが、それとほぼ同じフォーマットで禅センターの前にも禅堂のスケジュールが貼ってあります。月曜から金曜の予定が記載されていますが、朝の5時の座禅に始まり、歩行禅、説法、掃除などがあり、誰でも参加できるようになっていてキリスト教のような雰囲気もあります。サンフランシスコ禅センターは今では郊外に二箇所、かなり本格的な泊まり込みができる大きな禅堂施設を持っています。そこで住み込み修行をしている人たちもいます。
ここが面白いのは、ビジネスをしているところです。彼らはサンフランシスコのハーバーエリアにグリーンズというレストランを経営していまして、郊外の禅堂施設ではオーガニック野菜の農園もあり、そこで採れた野菜をこのレストランで出しています。私も食事いただいてきましたが、割と良いお値段でした。(笑)こういった収益が禅堂の経営に還元されているようです。
ZENDO SCHEDULE(撮影:山田奨治)
Greens Restaurant(撮影:山田奨治)
禅センターを設立した鈴木俊隆には、乙川弘文(おとがわ・こうぶん)という助手を務めていた人がいますが、彼は俊隆の招きでタサハラという郊外の禅堂施設で補佐役をしていました。俊隆の没後は乙川弘文がロサンゼルスで禅の指導をしていて、彼と有名なスティーブ・ジョブズには親交がありました。1986年にジョブズは自身が設立したApple社を追われてNext社を作りますが、そのNext社の宗教指導者として乙川弘文を招きます。また、スティーブ・ジョブズの結婚式を司ったのも乙川弘文だと言われています。Appleのシンプルなデザインが禅の影響だというのはよく言われていますね。
ZENからマインドフルネスへ
山田:
禅は特にここ10年以内の現象ですが、ティク・ナット・ハーンと、ジョン・カヴァット・ジンらが提唱しているマインドフルネスというものと融合するような形でかなりの変化が起きています。マインドフルネスというのは、全ての動作や呼吸などに心を行き渡らせていく、いわば身体技法ですね。その思想がハイテク企業や西海岸のスタートアップ企業の研修プログラムに取り入れられていて、マインドフルネスを行うと創造性が高まり、ストレスが軽減されるなど、そういったベネフィットが見込まれて色々な企業が採用していったという経緯があります。
ただし、そこまでくると禅やあるいは仏教が持っていたような生老病死*19の問題だとかそういったものからどんどん離れてしまうのです。現社会での実利的な利益を求めるような方向へ変質してしまっている感じがあります。一方、マインドフルネスはリラックスをし過ぎて逆に生産性が落ちるという話もあります。(笑)ライバル心や悔しさなどのマイナスな気持ちまでリラックスする中で失われては、創造的なエネルギーを生めなくなるという意見も出てきているのですね。
以上をもって、20世紀始め頃から現代に至るまでの禅とそれを媒介したアメリカでの文化的な動きについての大きな流れの説明とさせていただきます。
見ると大拙の人間的な苦悩ぶりがよく分かります。
河西:
長谷川:
ありがとうございました。今の山田先生のお話の中で気になったところなどありますか?
現代において仏教をどう捉えるかという点では、先ほどお話に出ていたマインドフルネスについて僕も問題だと感じています。現代では座禅を組むことがどのような効果・効能があるか科学的に立証されて、その効能を求めて座禅を組むという流れがありますが、それと日本での禅宗の座禅は全くの別物です。僕たちのような雲水*20が永平寺で座禅をくむときは、絶対に座禅に効果効能を見出してはいけないと教えられています。もし何かしらの効果があったとしても、それに執着することは禅の精神に反すると考えられています。
山田:
長谷川:
長谷川さんが修行された永平寺は殊の外修行が厳しいと言われていますよね。NHKの有名なドキュメンタリー番組がありましたけど、何かの機会に視るとどれだけ厳しいかよく分かります。
そうですね。修行ばかりしています。(笑)今では笑い話ですが、かなり過酷でした。そういったマインドフルネスと禅宗に違いがある中で、今自分はどのように仏教と関わっていくかを考えるにあたり歴史を逆に遡って考えてみました。
山田:
マインドフルネスのある現代から、ヒッピー達が東洋文化に触れていった過程があり、その後ビートカルチャーに移り、そこから禅にたどり着きました。逆に遡ることでより仏教への理解が深まり、アメリカでは禅のどういう所に面白みを見出してきたのかや、当時の彼らのZENと今の日本の禅宗とどのような違いがあったのか、そういう所に興味が湧きました。
カウンターカルチャーの影響を受けた人たちの禅への接近の仕方や、あとはZENがアメリカで大衆化したことによって至る所に禅的なものがあることが面白いのです。例えばサンフランシスコのお洒落なカフェに行くと少し東洋的なオーナメントがあったり、仏像が置かれていたりと、あらゆる所に浸透していて当たり前にそこにあります。元を辿ればそれがヒッピーやビートニックなのですが、殊更カウンターと言わなくともごく自然に禅的なものが取り入れられている風景はあると思います。
長谷川:
僕はビートジェネレーションの人が書いた本を読んで、日本での禅宗の捉え方よりも、当時のアメリカでのZENに対する感覚の方が非常に共感できました。日本人にとって、仏教に触れたことはあるけど深くは知らない人や、葬式や法事の時だけ仏教徒になるという方も多いと思います。それに比べ、当時のビートジェネレーションの人々はキリスト教的な生活に満足できず、数ある中からZENを選んでいきます。僕は仏教の本格的な流れを経て僧侶になりましたが、僕が禅僧になった理由は、今までの日本で信仰されてきた禅僧としてではなく、当時のビートジェネレーションの人たちがZENを選んでいく感覚に近いと思います。
山田:
長谷川:
ビートジェネレーションの人たちのあのようなムーブメントが起きた背景には、すごく強力なアメリカの中心的な文化があります。そして、それに対する反発がビートジェネレーションを広めました。アメリカン・ファミリーの理想のようなものや、キリスト教の存在がすごく大きいことへの違和感などがきっかけですね。日本にいた長谷川さんは何かきっかけなどがあったのでしょうか。
そうですね、仏教哲学について深く理解していくことと、日本で信仰されている仏教は異なると感じて、そこがきっかけでしょうか。
河西:
長谷川:
山田:
長谷川:
山田:
長谷川:
山田:
信仰されていると言うより、習慣として存在している仏教ということですよね。
そうです。生活の中で風習やしきたりとしてある仏教と禅宗との違いがきっかけという事です。
ご存知だと思いますが、「葬式仏教」という言葉がありますね。日本の仏教は葬式専門と言われていることへの批判です。それに対する反省として「社会参加仏教*21」というものが特に震災後からムーブメントとしてそういう動きがあるようですね。本来は社会救済の意味が仏教にはありましたので、それを取り戻そうという動きです。
日本にはすでに形式的な仏教があるので説明が入ってきやすいですが、鈴木大拙は仏教のベースがないアメリカで禅を説いたということに非常に興味があります。仏教の形式を飛び越えて話すととても哲学的で、本来仏教が目指しているところに近くなると思うのです。
大拙がアメリカに行き禅について語り始めた時、それまで禅を英語で語った人がほとんどいなかったのです。そういうところで、一体どのような英語を使えば伝えられるのか、随分と大拙は試行錯誤したと思うのです。その時に参考にしたのがトランセンデンタリズムや自然主義・ロマン派の詩人たちが使った言葉で、自分の考えや禅を語る時に使っていたと思います。
彼は禅を語るとき、日本語と英語で微妙に違います。結構違うと言っても良いかもしれません。(笑)だから英語しか分からない人たちには英語で大拙の説明を理解するから、独特な理解になる。日本語も分かる我々は、大拙の説明を相対して理解できますね。両方から見ると、大拙という人のある種の大らかさというか、いい加減さが分かるので、人間的な魅力を感じると思います。結構庶民的なところもありますよ。
すごく興味深い話です。そういうところも大拙は面白いと思います。
私の著作の「東京ブギウギと鈴木大拙」では、大拙の養子であり、「東京ブギウギ」の作詞者でもある鈴木勝という人について書いています。鈴木勝はとんでもない人でして、親からすると恥ずかしいようなことも多々起こす息子だったのですが、大拙は彼のことで親として随分と悩んでいたそうです。そういうことを色々と資料を発掘してまとめたのがこの本でして、特に子供との関係を見ると大拙の人間的な苦悩ぶりがよく分かります。
長谷川:
今回の個展でも引用していますが、スッタ二パータ*22という仏教で最も古いとされる経典のひとつがありますが、これはパーリ語という当時の話し言葉で書かれています。仏教はまだその時代に存在しておらず、当時暮らしていた人たちに伝わるように新たな知恵や教訓を作り上げていっていたのですが、それが後に仏教として確立します。仏教について全く前知識がない人々へなんとか仏教を伝えようとした鈴木大拙や鈴木俊隆は、パーリ語で語られた最初の仏教と繋がるものがあると思います。
山田:
大拙の語りと、俊隆の語りは、同じ鈴木でも大分違っています。大拙は難解で難しい言葉を使うのです。一方、俊隆は非常に親しみやすい言葉で語っていたようです。実際人間的にも魅力のある人で、それに惹かれて弟子たちが付いていったということもあります。俊隆は夫婦揃ってアメリカへ行きましたが現地で妻が亡くなり、その後間もなく弟子の一人と再婚しています。そういうところは非常に俗っぽいところがありますね。(笑)