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『セルフもっとサテライト 2018初秋』

アーティストトーク

小保方裕哉『PHASE DUCT』

小保方裕哉『PHASE DUCT』

 

藪前: 

作品を拝見しましたが、すごく謎めいたストーリーですね。これは別作品のスピンオフのような位置付けなのですか?

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『PHASE DUCT』展示風景

小保方: 

藪前: 

小保方: 

以前制作した映像作品の中で主人公が着ているのがこのドレスで、そのドレス自体を主人公にしたのが今回の作品です。

 

ということは、映像の中で話しているのはそのドレスということでしょうか?

 

厳密に言えば、このドレスがバッファローの革から作られていて、そのバッファローが語っているという状況です。二着ドレスが登場しますが、これらは一頭のバッファローから作られています。作品の最初に「生まれる前は一緒だった」というセリフがあるのですが、これはドレスとして生まれる前は一つの体だったということを表してます。それをシンボリックにさせるために双子に着せて登場させています。

Screen Shot 2020-01-15 at 15.12.02.png

《PHASE DUCT》

2018 | video with sound | 1'30" | © Yuya Obokata

二つに分かれているというのは構造上の理由でそのように作られているのか、それとも何か意味があるのでしょうか。

 

正直に言うと、単純に双子を作品の中に使いたかったというのが一番大きいかもしれないです。(笑)

 

(笑)

 

これまでの映像作品では「ディストピア」をテーマに制作することが多かったのですが、手法としてはセットを作り込んですべて実写でドラマのような作品を作っていました。それに対して今回は、素材として物を個別に撮影して、コンピューター上で合成して3D空間を作っていくという形で制作しました。僕としては手法にこだわりがあるわけではなくて、今回作りたいテイストを考えたときに、ちょっとした違和感みたいなものを表現できるように完全な実写ではなくて合成で制作しました。

 

この双子がダイアン・アーバスの作品を思い起こさせますよね。この双子という設定が物語や作品自体に関わってきているということですね。

藪前: 

藪前: 

小保方: 

小保方: 

会場: 

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ダイアン・アーバス《Identical Twins, Roselle, N.J.》 (1966)

小保方: 

藪前: 

小保方: 

藪前: 

小保方: 

藪前: 

小保方: 

藪前: 

小保方: 

藪前: 

小保方: 

藪前: 

会場: 

そうですね。先ほど言ったように、双子だけれども元々は一つである、ということをまずは表していますね。

 

最後のシーンで宗教のことを話していたりしますが、これにはどういうメッセージがあるのでしょうか?

 

僕は文章を書くのが好きで、以前の作品では作品を撮る前に一度ストーリーを小説化して、脚本にした後にビジュアルに落とし込むということをしていたのですが、それは、ことばによってその光景が目に浮かぶような詩的な要素を映像の中に取り入れたいと思ってやっていることです。今回も完全な口語ではなくて、少し文語的な言い回しを取り入れています。

 

最後のシーンに関してなのですが、宗教に限らず、ジンクスやちょっとしたルーティンなんかも含めて、信仰・信じることが大切であると僕は思っているのですが、「信仰心がほどほどにあるけれど、信仰心を持ち続けていると後戻りができない」ということを表現したくて最後のシーンを作りました。鳥居が出てくるのですが、その奥に神社があるわけではなく、コンクリートで閉ざされています。奥に進むこともできなければ、後ろに引き返すこともできない、ということを表現しています。今回制作する中で、このシーンを最後にすることで落ち着くんじゃないかと思って、これをラストに持ってきました。

 

この作品は、バッファローが服になっていく過程が物語ということですよね?

 

そうですね、その過程を回想している映像です。例えば「パンデミック」という疫病が大規模に流行している状態のことを指すワードだったり、「ドラッグ」というワードが出てくるのですが、これは防腐剤などを使われて薬漬けになってしまうなど、布として製品化される過程を比喩的に表しています。

 

メッセージとしては、バッファローから見るとディストピアである世界ということでしょうか?

 

そうですね。これまでの作品でいう「ディストピア」とは人間にとってのものだったのですが、ここまでくるとバッファローにとってはこの作品の世界はディストピアですね(笑)。

 

「ディストピア」というワードがあると、作品のテーマがすごく広がりますよね。

 

自分が作品のテーマとしてディストピアを扱う一つの理由かなと思うのですが、ディストピアを知ってこそ、ユートピアがあるのかなと思うんですよね。幸せって、少しの不幸があるからこそ感じられるじゃないですか。

 

ということは、この作品は私たちがユートピアを体感するための一つの視点の転換ということなのでしょうか。

 

そうですね。ユートピアに行けたらとは思いつつも、ディストピアに留まってしまう人もいると思うので。

 

「バッファローじゃなくてよかった」と思ってもらうという感じでしょうか。(笑)

 

(笑)

冨川紗代『Our Basic Common Link』

 

冨川紗代『Our Basic Common Link』

河西:

では、LYUROで展示している冨川さんです。

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『Our Basic Common Link』展示風景(photo: Fuyumi Murata)

菊地: 

冨川: 

藪前: 

菊地: 

冨川: 

藪前: 

菊地: 

藪前: 

冨川: 

冨川さんが今回の企画に参加するに至った経緯なのですが、僕と森山くんが香川の粟島というところでレジデンスを昨年していたのですが、初日に島に入るときにフェリー乗り場ですごく哀愁漂う女性がいて、どこかで見たことあるなと思って近づいてみたら冨川さんだった、ということがありまして。この再会はまったくの偶然で、冨川さんは僕らのレジデンスのことは一切知らなくて、ちょうど当時仕事を辞めたばかりで放浪の旅に出ていたんですよね。そのとき、再会できたのでビールを買って乾杯をしたんですね。そこで色々と話をする中で「一緒に展覧会なんかをできればいいね」と話していたので、今回の企画が始動したときに彼女に声をかけました。

 

会社を辞めて、「海が見たい」と思って四国を旅していました。

 

よほど傷心されていたんですね。(苦笑)

 

そのときに訪れたうちの一つが粟島で、そこは人口200人くらいの本当に小さい島なのですが、行ってみたら「なんだか顔の濃い人がいる」と思って。それで近づいたら菊地さんだった、という。(笑)本当にびっくりしましたね。

 

僕らがレジデンスで滞在している間も他の同級生の友人たちと遊びに来てくれて、一緒にペンキ塗りなんかをしてくれてました。

 

仕事を始めてから制作を一切できない1年間だったので、ペンキ塗りさえ楽しかったですね。

  

取手のキャンパスに講義で行くこともありますが、冨川さんみたいな学生さんはいないですよね。(笑)

 

学部の最初の頃なんかは、冨川さんは一人だけヒールの靴を履いてきて、釘もまともに打てないような子だったんですけど、そのうち脚立に登ったりインパクトを使いこなすようになったりと、どんどんとたくましくなっていく姿を見ていました。その後も彼女の作品を見たいなと思っていたのですが、卒業後は就職し、あまり会う機会もなかったんですよね。そんな中、粟島で再会できてよかったですね。その時は、正直彼女が顔色もあまり良くなくて、疲れている感じでしたね。(笑)本人も制作をしたいということをそのとき話してくれていたので、今回声をかけさせていただきました。

 

今回発表しているのは新作ですよね?

 

そうです。人種の多様性や人種間のトラブルや差別、宗教による分離などをテーマに作品を制作するような時期もあったのですが、あまりテーマとしてはネガティブで良くないな、とあるとき思うようになりました。その代わりに、人間の中で共通している事実を扱えばポジティブな作品を作ることができて、より多くの人々に自分の作品を見てもらえるんじゃないかと思い、人間そのものの共通性に重きを置いて制作をするように転換していきました。

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《Our Basic Common Link #2》(detail)

2018 | mirror, acrylic, iron, medium | φ450 mm each

©︎ Sayo Tomikawa, photo: Fuyumi Murata

河西:

その変化のきっかけとして、何か視点の転換があったということですよね?作品のテーマが普遍性だったり人類全体のことを考えたりとされていますが、どこでその視点を得たのでしょうか?

 

社会問題をアートで取り上げると、傷つく人も少なくともいるなと気づき、それはしたくないなと思ったんですよね。

 

それはご自身がお仕事をされているからこそ気づいた点なのかなと話を聞きながら思いました。社会の中で自分の表現をどう発表するのか、ということとか。

 

そうかもしれないですね。あとは、私の作品は見た目がキラキラと光るようなものが多いのですが、見た目がキャッチーであることで、より多くの人にまずは興味を持ってもらえて、「コンセプトは何なんだろう」と作品の中身のことを考えてもらうきっかけになるんじゃないかと思っています。

 

ホワイトキューブなど美術界隈の人の目にしか触れられない場所ではなくて、いろいろな人に見てもらえるように、今回のLYUROさんのような会場で、作品自体も取っつきやすい見た目でやっていこうと考えています。

 

でも、その「取っつきやすさ」って諸刃の剣で、取っつきやすさが故に深く考えてもらえないとか、すぐ内容を理解されてしまって、すぐに消費されてしまうという状況も紙一重なのかなと思いますが、どうでしょうか。

 

もちろんその可能性もありますが、とはいえ「作品を見る人の分母を増やしたい」というのが第一に私が考えていることなので、パッと見て行ってしまう人がいるのもそれはそれで仕方がないのかなと思います。

 

なるほど。今回鏡を使った作品をたくさん展示していますが、その数の多さは重要なのでしょうか?

冨川: 

冨川: 

冨川: 

藪前: 

藪前: 

藪前: 

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《Our Basic Common Link #2》

2018 | mirror, acrylic, iron, medium | φ450 mm each

©︎ Sayo Tomikawa, photo: Fuyumi Murata 

冨川: 

藪前: 

冨川: 

藪前: 

冨川: 

藪前: 

冨川: 

冨川: 

例えば一つの鏡の前に立てばそこに自分の姿が映りますが、もちろんその隣にある鏡の中に自分は映らないし、中を覗くこともできないですよね。こういう形で「自分が見ている世界ではない別の世界の姿がある」ということを表現したくてこの作品を制作したので、一つではなく複数あるというのも表現の上で重要な要素ですね。今回展示しているのは12個ですが、これ自体は今回の展示空間とのバランスを考慮しての個数であって、個数よりも複数あるということが重要です。

 

この作品が表現しているように、複数の世界が共存しているという状況に興味があるのですか?

 

そうですね。この世界にある視点は一つではなくて、多角的にいろいろな視点が存在しているということを示したくて、こうしたテーマの作品を共通して制作しています。

 

この作品を作ることで冨川さん自身にはどんな影響があるのでしょうか?アーティストの人々って、「作品を作ることで社会に仕返しをする」だとか、「作品が自分の心の癒しになる」とか、いろんな動機があって制作活動をしていると思うのですが、冨川さんの場合はどうなのかなと。

 

単純ではありますが、鑑賞者が私の作品を見ることで、その人が作品のテーマである普遍的な「人間」というテーマを考えるきっかけになればと思っています。

 

帰国子女としての経験を通して得たことを、そうではない人たちに啓蒙する、ということではないのですか?

 

私の帰国子女としての経験も視点として作品制作の中の要素の一つだとは思うのですが、そういう一部の枠組を超えて、もっと普遍的な人間のアイデンティティや自分が見えていない世界、自分を含めてこの世界の様々な人々のことを考えるきっかけのきっかけになれればと一番嬉しいなと思っています。

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