田中和人 個展『Picture(s)』開催記念トークイベント
「写真とは何か? —田中和人の作品から考える—」
田中和人 × 金村修 × 小松浩子
■目次■
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■質疑応答1:絵画の感覚、写真の感覚
■「写真」と抽象と具象
■「見えなくてもいい」写真
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■1枚の写真
■「写真の神様」がいる
〈「自分を減らし」「奉仕する」感覚で撮る〉
大学に呼ばれて授業をすることもあって。その課題のなかに「好きな写真家を選んでそれを模倣した写真を撮る」というものがあって、「好きな写真家」として金村さんを選ぶ生徒さんが多いんです。ただ、撮ってきた写真を見ると金村さんのそれとはやはり違う。
だから、自分をニュートラルに空っぽにして撮ると言っても、やはり、金村さんや小松さんのように「世界が見えている」というところもあると思います。なんというか、自分の眼に他人の眼が入っている感覚というか、自分の感覚も残しながらのカメラとの「共同作業」のような。おふたりはそういうことを考えますか? そこが写真の面白さでもありますよね。
田中:
金村:
デジタルで撮っている人は分からないかもしれないけど、フィルムカメラだとファインダーを覗き込むんですよね。「覗き込む」と自分って消えていくんですよ。ハンターが獲物を見ているときに近い感覚で、自分と被写体が一緒になっていく。でもそれは自分が消えているというわけではないんです。ゼロにはならないんだけど自分の領域を縮減していくというのかな。
ファインダーを覗くという行為はやはり特殊ですよね。そこしか見えないから、吸い込まれていくような、自分がなくなっていくような感覚があります。眼がなくなっていくというより、身体がなくなっていくような感覚です。その眼というのも、自分で能動的に見ているのか、受動的に見せられているのか、それが交互にくるようで分からなくなります。
僕の知り合いの写真家は「4×5(シノゴ)」で撮っていて、シノゴは暗幕を被って撮るから完全にその世界に入るんだけど、気持ちが入ると同じ対象を何十回と撮るそうです。この世界を誰かに盗られたら大変だ、と思う気持ちはとてもわかります。シノゴは上下が反転するから、余計に現実から離れているんでしょうね。
僕は若いころに「6×6(ロクロク)」を使っていたんだけど、左右が反対で、撮影するときは最初から下を向いているから謝っているように見えるんですよ(笑)。非常に自我が弱くなっていって、1年後にこれじゃダメだと思って「6×7(ロクナナ)」に代えたんですけど、世界をまっすぐに見てもいいんだと思えるようになりました。僕は、それから開花したと思います(笑)。
一同:
(笑)
私、映画監督の大和屋竺(やまとや・あつし)*4さんが好きなんですけど、『荒野のダッチワイフ』などを撮っている方で、その人が『牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件*5』について書いているのですが、その中で「カメラは人の扱えるものではないから、悪魔に委ねよ」と言っているんです。その意味が少しわかる気がするんですよね。私たちは写真に奉仕する側でいいかなと思っています。
小松:
〈動画と写真〉
金村さんは最近、映像作品を制作されていますよね。その理由を伺いたいです。
田中:
本当は僕はカメラマンより、映画監督か、ミュージシャンになりたかったから、今のほうが目標に近づいている気がします。写真は額装して1点ずつをきちんと見るけど、そうではなくもっと動きを取り入れたいなと思って、そこから動画を始めました。
僕は8ミリフィルムカメラで撮っていて、編集するときにスプライシングテープ*6を貼るから、短いショットをつなげすぎるとテープでフィルムが膨らんで、映写機に上手くかからないので、細かく編集できないんです。デジタルになったら細かい編集ができるようになったので、何年かぶりに映像を初めて見ました。そして、面白いことに、映像を制作しているとき、動いているものを見ると止めたくなるんですよね。動画に取り組んでいるときのほうが写真を意識するんです。写真を撮るときほど緻密にフレーミングはしないけれど、動画のほうがすごく写真だなと思います。
金村:
©︎ KANA KAWANISHI GALLERY
僕は最近ドローイングもしているんですけど、それも絵というよりはすごく写真だなと思うんです。製図に使うような丸や三角を書こうとしているんだけど、定規の形を紙に転換すること、目の前の定規の形をうつしていくところがすごく写真的。自分ではなく、最初に形が先行しているというのも写真的だと思います。パッと見でアウトサイダー・アートのように見えるといわれることもあるけど、僕はやはりこれは写真という意識なんですよ。
金村:
金村さんはいつもサングラスをかけていますよね。サングラスをして世の中を見ている状態は、ほぼ写真を撮っているような状態に近いんじゃないかと思うんです。そうすると、サングラスをしている間ずっと無意識的にイメージが自分に蓄積していて、それをどうにか吐き出す場が必要で、大量のイメージを吐き出せる映像に取り組んでいるのかなと思っていました(笑)。
田中:
金村:
それはありますね(笑)。僕は個展で100枚ほどの作品を展示しているんです。90年代にはすごい量だねといわれていたのですが、あるとき小松さんが出てきて、彼女は2000枚以上の作品で空間を埋めるので、それを見てこれは完全に負けているなと思いました(笑)。それで、じゃあ動画を始めようかなと思ったのもあります。動画は写真と違ってどんどん撮れるから、見たものを「吐き出す」という言葉はとてもしっくりきます。そういえば、ゴダール*7もサングラスをかけていましたね。編集のときにかけているのを何かで見たことがあるけど、絶対色なんか気にしてないんだろうなと思いましたね(笑)。
一同:
(笑)
〈写真と文字の関係〉
金村さんのドローイングもそうですけど、小松さんもニューヨークで書籍の文字を使った作品を発表されていましたよね。
田中:
小松:
そうですね。これは本のテキストをすべて切り抜いて瓶に入れているシリーズです。元はソフトカバーの文庫本ですが、そこに自分で黒いハードカバーの表紙をつけて「Black Book」と名前をつけています。
Black Book #1
2021 ©︎ Hiroko Komatsu
小松:
最近、写真と文字の関係についてすごく考えているんですけど、とても似ていると思うんです。私は写真作品を大量に出していて、人によっては1枚だけしか出さない人もいますけど、私の感覚でいうと、写真は1枚では何かを表出できないと考えています。同じように文章も単語だけでは成り立たず、数を増やさないと何かを表出できないんです。
展覧会の会場で、発泡スチロールを使ったオブジェを作っているのですが、あれは展覧会の空間を減らすという感覚で制作していて、同じように「Black Book」では本の中から文章を減らすということを行っています。
今完成しているのは2冊で、環境問題についての本を選んでいて、1冊目はグレタ・トゥーンベリ*8、2冊目はセオドア・カジンスキー*9の本です。カジンスキーは彼のマニュフェストを切り抜きました。その本の中では、随分と昔から環境問題について危惧する意見があるにも関わらず、状況を変えることができていないということが書かれていて、私も何かできるわけではないのですが、ひとまずそれらの言葉を取り出して、別の場所へ移してみたらどうだろうかと思ったことがきっかけで、制作しました。
『誠心部誠意課』展示風景
©︎ Hiroko Komatsu, courtesy die Firma (New York)
〈フィルム派? デジタル派?〉
お二人はアナログな作業も多いと思うのですが、金村さんの映像作品ではデジタルやアナログのこだわりから吹っきれているように感じます。その辺りはどうお考えでしょうか?
田中:
僕の学生時代には「デジタル派かフィルム派か」という争いがありました。デジタルカメラで撮ってきた写真を放り投げる先生がいたりもしましたけど、僕はそこへのこだわりは昔からあまりないです。粒子があるかないかだけでしょ、と思いますし(笑)。どちらでもいいと思います。
個人的には粒子のあるフィルム写真をみているほうが好きという感覚はあります。ただ、それは写真の本質とは関係ないんじゃないかな。あとは、写真はネガを基準に考えているから、ネガがないデジタルのほうを写真とは違う呼び方をしたほうがいいのかなと思うこともありますけどね。フィルムフェチな人はたくさんいますけど、僕は違うから、使えるのであれば両方使えばいいと思う。
金村:
田中:
僕も、相対的に写真ということは意識していますが、作品によってフィルムもデジタルも使いますし、カメラ自体も使ったり、使わなかったりします。
田中さんのこの作品ではカメラを使っていないですもんね。実は、20年代のほうが写真は進んでいたんじゃないかと思うこともあります。20年代はカメラを使わない写真技術を使う人も多かったんですけど、今は絶対にカメラが必要な風潮があり、カメラがないと写真じゃないと言われたりもします。今度小松さんが刊行する作品集「Channeled Drawing」では、カメラを使っていないんですよね。
金村:
「Channeled Drawing / Hiroko Komarsu」書影
©︎ Hiroko Komatsu
そうですね、これはカメラを使っていないです。地面をフロッタージュ*10したものをフォトグラムしています。実は殺人現場の地面なんですが、緯度、経度、氏名、殺され方、犠牲者の数などの情報がタイプライターで打ってあるんです。ネットなどで調べてその場所へ行き、地面をフロッタージュして、戻ってきてからそれをフォトグラムしてふたつの作品を展示しています。
小松:
「Channeled Drawing / Hiroko Komarsu」
©︎ Hiroko Komatsu
なぜそこに興味をもったんですか?
河西:
昔から、特にシリアルキラーに興味があります。自分で作品を制作しているのと同じ感覚なんですけど、なぜこんなことをするのか、彼らの気持ちが分からない。だから調べています。コリン・ウィルソン*11も「何か衝動があって、その先にある最高の形が芸術作品で、最悪の形が殺人だ」と書いていましたけど、それをみて、なるほど芸術と殺人は近いのかと思い、そこからとても興味がわきました。
小松:
『Komatsu Hiroko: Second Decade』展示風景
©︎ Hiroko Komatsu, courtesy Joseloff Gallery at the University of Hartford
田中さんにしても、小松さんにしても、もうみんなカメラ使わなくなっているんですよね。
金村:
宣言しているわけではなくて、カメラを使う作品も制作したいと思っているんですけどね。
田中:
金村:
カメラ使って写真撮るのはもうダサいのかな(笑)。僕はまだなんだかんだカメラ使っているんだけど、ダメだなあと思いました。
それは、みんなが携帯電話を持ち始めて、手軽に写真を撮れるようになったことと関係はありますか?
河 西:
それはあるでしょうね。はっきり言って、インスタの写真ってみんな上手じゃないですか。写真学校にいく必要ないなと思いますよね。ネットに上がっている食べものの写真なんて、あんなに上手に撮れないもん(笑)。むしろこれからの写真家は下手であるべきなのかなとも思います。下手なほうが写真がうまいと思われるんじゃないかな。
金村:
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*4 大和屋竺(やまとや・あつし):日本の脚本家・映画監督・俳優。アニメーション脚本家・中央競馬馬主の大和屋暁は息子。
https://ja.wikipedia.org/wiki/大和屋 竺
*5 牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件:中学生男子による同級生女子殺傷事件をモチーフにした青春映画。
*6 スプライシングテープ:粘着テープがつきづらい剥離紙などのつなぎ用粘着テープで、映像フィルムや録音テープなどをつなぎ合わせるために使用される。
*7 ジャン=リュック・ゴダール:フランスの映画監督。編集技師・映画プロデューサー・映画批評家・撮影監督としても活動し、俳優として出演したこともある。
*8 グレタ・トゥーンベリ:スウェーデンの環境活動家。
*9 セオドア・カジンスキー:アメリカのテロリスト。数学者でもあり、アナーキズムに関する著作もある。FBIのコードネームからユナボマーとも呼ばれる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/Theodore John Kaczynski
*10 フロッタージュ:シュルレアリスムで用いられる技法のひとつ。表面がでこぼこしたものの上に紙を置き、鉛筆などでこすると、その表面のでこぼこが模様となって、紙に写し取られる。このような技法およびこれにより制作された作品をフロッタージュと呼ぶ。
*11 コリン・ウィルソン:イギリスの小説家、評論家。