藤村 豪 個展『誰かの主題歌を歌うときに』
藤村 豪 × 深川 雅文 往復書簡パフォーマンス

藤村豪(アーティスト)と深川雅文(キュレーター/クリティック)が行う、往復書簡パフォーマンスをご覧頂けます。
藤村豪個展『誰かの主題歌を歌うときに』に際し、会期直前から会期終了までの6週間に渡り、ギャラリーがフィルターとして介在しながら、二人の間で行われる文通は、「日本語→ポルトガル語→日本語」と2度の自動翻訳を経て、内容に一部ズレが生じた状態でお互いにやりとりが行われます。
※2020年7月3日(金)をもちまして、本パフォーマンスは完結いたしました。
藤村豪の行う往復書簡
深川雅文の行う往復書簡
Jul 2, 2020
深川様
お返事ありがとうございます。今日の午後は素晴らしい天気でした。
鳥のさえずり。今回の展覧会では発表できませんでしたが、この何年か夜に鳴く鳥についての作品を制作しています。それは初夏の夜の時間に、朝日が出るまで私の家の周りを鳴きながら飛ぶ回る一羽の鳥についての作品です。私はその鳥のさえずりを真似しながら丘陵の森を行き来するのですが、繰り返し真似をしていると結局はただの人間の声に辿り着いてしまうのです。真似をし過ぎて鳥のさえずりを真似している自分の声を参照せざるを得なくなってしまう。練習が完全を形作らなくなることもあるのですね。
同じようなことが、私たちがこれまで行ってきたこの往復書簡にも起きているかもしれませんね。そういえば、往復書簡を読んだ友人からは私が機械学習を学習しようとしているという指摘がありました。確かに回を重ねるうちに私の文章のスタイルは変化したように自分でも感じています。しかしその変化は機械学習に対する学習というよりも、まさに文通をしているということを表しているのかもしれません。文通においてはよくある話で、同じ相手と言葉を交わしていると自分の文体がどんどん相手の文体の方へと近づいていきます。自筆での手紙の場合は、文字まで相手の影響を受ける場合もあるぐらいです。これは私に固有の問題なのでしょうか。それとも手紙を交わす相手にも同じことが起きているのでしょうか。もしお互いに起きていることであるとすれば、もはやそれは一体どこへ近づいていくというのでしょうか。付け加えて私たちが参照する手紙はお互いが書いた手紙そのものでさえないのです。
と、ここまで書いてあの「フランスパンの夢の話」についての一連の実践に思い当たりました。正解以外を退けるようなことを完璧なコミュニケーションと呼ぶならば、あれらの場にはそれは存在していなかったでしょう。しかし、間違いや誤解を互いに実感し合うこと、そういったものが含まれるものとしてコミュニケーションを考えるならば、まさにあれらはコミュニケーションだったはずです。完璧に。
元の岸辺に辿り着くことは不可能であるかもしれないし、どうやら行き先だって確かではなさそう。でも、そんな不可能性がどっさりと積み込み込まれた舟にそれぞれが乗っていると想像すること。もしくは「走り続ける列車に飛び乗る」でもいいかもしれませんね。
行き交う舟や列車がすれ違う束の間に、果たして人々は何を伝えられるのでしょう。もしかしたら何かを伝え合うのは難しいのかもしれない。でも何かを伝え合おうとしたことや、大きく手を振り合った時間があったことはきっと忘れない。そういうことからコミュニケーションについて考えていけるといいかもしれません。こうして深川さんと遣り取りをすることによって、改めてそんなことを考えています。
息子が鳥類図鑑(偶然にも!)が欲しいと繰り返し言う声が聞こえてきたので、この辺りでブラシを置きます。どうもありがとうございました。また近いうちにUFOのお話でも聞かせてくださいね。
藤村
Jul 2, 2020
深川
ご回答有難うございます。今日の午後は天気が良かった。
鳥のツイッター。今回の展覧会では発表できませんでしたが、数年前から夜に歌われている鳥たちの歌を担当しています。初夏から日の出までの夜間、家中を歩き回る鳥のこと。鳥のさえずりを真似しながら丘の森の中を行ったり来たりしますが、繰り返し模倣すると人間の声になってしまいます。私は自分の声に言及することを余儀なくされ、それは鳥があまりにも模倣して鳴く鳥を模倣します。時々練習は完璧ではありません。
私たちがこれまで行ってきたこの返送状でも同じことが起こった可能性があります。ちなみに、返信の手紙を読んでくれた友人から、機械学習を学んでいるとのことでした。時間の経過とともに私の書体は変わったと思います。ただし、この変化は、機械学習の学習よりもコミュニケーションに関係している可能性があります。通信では当たり前の話で、同じ人と言葉を交わすと、自分のスタイルがだんだんと相手に近づいていきます。自分で書いた手紙の場合、他人の影響を受けます。これは私にとって独特の問題ですか?または、手紙を交換する相手に同じことが起こっていますか?これがお互いに起こっていることである場合、それはどこに最も行きますか?さらに、私たちが参照する文字は互いに書いてもいない。
そこで、「フレンチパンドリームストーリー」に関する一連の実践を作成しました。正解以外のすべての拒否を完璧なコミュニケーションと呼んでも、それはそれらの場所には存在しません。しかし、コミュニケーションをお互いの間違いや誤解を察知し、それらを含める方法と考えるなら、それはコミュニケーションであったに違いありません。完全に。
元の海岸に到達できない可能性があり、目的地が不明であるようです。しかし、それぞれが非常に多くの不可能性を備えたボートに乗っていると想像してください。または、「走り続ける電車に乗る」こともできます。
ボートや電車が通り過ぎるとき、人々は何を私たちに言うことができますか?何かを伝えるのは難しいかもしれません。しかし、何かを伝えようとしていたこと、握手する時間があったことを決して忘れないでしょう。そんなことからコミュニケーションを考えるのもいいかもしれません。このように深川さんと接する中で、改めて考えています。
鳥の写真集が欲しい(偶然!)と息子が何度も言っているのを聞いたので、ここにブラシをかけました。どうもありがとうございました。すぐにUFOについて教えてください。
藤村
>> 次の手紙(07.03)
>> 次の手紙(07.03)
原文同士のやりとり
※パフォーマンスの副産物として生じた実在しない対話
自動翻訳文のやりとり
※パフォーマンスの副産物として生じた実在しない対話
Jul 2, 2020
深川様
お返事ありがとうございます。今日の午後は素晴らしい天気でした。
鳥のさえずり。今回の展覧会では発表できませんでしたが、この何年か夜に鳴く鳥についての作品を制作しています。それは初夏の夜の時間に、朝日が出るまで私の家の周りを鳴きながら飛ぶ回る一羽の鳥についての作品です。私はその鳥のさえずりを真似しながら丘陵の森を行き来するのですが、繰り返し真似をしていると結局はただの人間の声に辿り着いてしまうのです。真似をし過ぎて鳥のさえずりを真似している自分の声を参照せざるを得なくなってしまう。練習が完全を形作らなくなることもあるのですね。
同じようなことが、私たちがこれまで行ってきたこの往復書簡にも起きているかもしれませんね。そういえば、往復書簡を読んだ友人からは私が機械学習を学習しようとしているという指摘がありました。確かに回を重ねるうちに私の文章のスタイルは変化したように自分でも感じています。しかしその変化は機械学習に対する学習というよりも、まさに文通をしているということを表しているのかもしれません。文通においてはよくある話で、同じ相手と言葉を交わしていると自分の文体がどんどん相手の文体の方へと近づいていきます。自筆での手紙の場合は、文字まで相手の影響を受ける場合もあるぐらいです。これは私に固有の問題なのでしょうか。それとも手紙を交わす相手にも同じことが起きているのでしょうか。もしお互いに起きていることであるとすれば、もはやそれは一体どこへ近づいていくというのでしょうか。付け加えて私たちが参照する手紙はお互いが書いた手紙そのものでさえないのです。
と、ここまで書いてあの「フランスパンの夢の話」についての一連の実践に思い当たりました。正解以外を退けるようなことを完璧なコミュニケーションと呼ぶならば、あれらの場にはそれは存在していなかったでしょう。しかし、間違いや誤解を互いに実感し合うこと、そういったものが含まれるものとしてコミュニケーションを考えるならば、まさにあれらはコミュニケーションだったはずです。完璧に。
元の岸辺に辿り着くことは不可能であるかもしれないし、どうやら行き先だって確かではなさそう。でも、そんな不可能性がどっさりと積み込み込まれた舟にそれぞれが乗っていると想像すること。もしくは「走り続ける列車に飛び乗る」でもいいかもしれませんね。
行き交う舟や列車がすれ違う束の間に、果たして人々は何を伝えられるのでしょう。もしかしたら何かを伝え合うのは難しいのかもしれない。でも何かを伝え合おうとしたことや、大きく手を振り合った時間があったことはきっと忘れない。そういうことからコミュニケーションについて考えていけるといいかもしれません。こうして深川さんと遣り取りをすることによって、改めてそんなことを考えています。
息子が鳥類図鑑(偶然にも!)が欲しいと繰り返し言う声が聞こえてきたので、この辺りでブラシを置きます。どうもありがとうございました。また近いうちにUFOのお話でも聞かせてくださいね。
藤村
Jul 2, 2020
深川
ご回答有難うございます。今日の午後は天気が良かった。
鳥のツイッター。今回の展覧会では発表できませんでしたが、数年前から夜に歌われている鳥たちの歌を担当しています。初夏から日の出までの夜間、家中を歩き回る鳥のこと。鳥のさえずりを真似しながら丘の森の中を行ったり来たりしますが、繰り返し模倣すると人間の声になってしまいます。私は自分の声に言及することを余儀なくされ、それは鳥があまりにも模倣して鳴く鳥を模倣します。時々練習は完璧ではありません。
私たちがこれまで行ってきたこの返送状でも同じことが起こった可能性があります。ちなみに、返信の手紙を読んでくれた友人から、機械学習を学んでいるとのことでした。時間の経過とともに私の書体は変わったと思います。ただし、この変化は、機械学習の学習よりもコミュニケーションに関係している可能性があります。通信では当たり前の話で、同じ人と言葉を交わすと、自分のスタイルがだんだんと相手に近づいていきます。自分で書いた手紙の場合、他人の影響を受けます。これは私にとって独特の問題ですか?または、手紙を交換する相手に同じことが起こっていますか?これがお互いに起こっていることである場合、それはどこに最も行きますか?さらに、私たちが参照する文字は互いに書いてもいない。
そこで、「フレンチパンドリームストーリー」に関する一連の実践を作成しました。正解以外のすべての拒否を完璧なコミュニケーションと呼んでも、それはそれらの場所には存在しません。しかし、コミュニケーションをお互いの間違いや誤解を察知し、それらを含める方法と考えるなら、それはコミュニケーションであったに違いありません。完全に。
元の海岸に到達できない可能性があり、目的地が不明であるようです。しかし、それぞれが非常に多くの不可能性を備えたボートに乗っていると想像してください。または、「走り続ける電車に乗る」こともできます。
ボートや電車が通り過ぎるとき、人々は何を私たちに言うことができますか?何かを伝えるのは難しいかもしれません。しかし、何かを伝えようとしていたこと、握手する時間があったことを決して忘れないでしょう。そんなことからコミュニケーションを考えるのもいいかもしれません。このように深川さんと接する中で、改めて考えています。
鳥の写真集が欲しい(偶然!)と息子が何度も言っているのを聞いたので、ここにブラシをかけました。どうもありがとうございました。すぐにUFOについて教えてください。
藤村
>> 次の手紙(07.03)
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