岩根愛個展『ARMS』
石内都×岩根愛対談
暗室での苦悩
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現在、このカメラを使っている方は他にもいらっしゃるの?
アメリカに2人いて、私はそのうちの1人であるオハイオ州にお住まいのリチャードさんという方に撮影や現像の方法など、技術的なことを全部教えてもらいました。私は皿現像*2でプリントを制作するのですが、2m幅のバットを特注で作っていただき、三春町にある廃校になった学校の給食室の流しを使って現像しています。
じゃあ、これは全部自分で現像しているのね。
誰もこんな大きなサイズのものを引き受けてくれないですからね(笑)。なので、最初は何回も現像に失敗していました。こんなサイズですからフィルムが一本5000円くらいの値段なので、失敗するたびに「チャリン、チャリン」って音を立ててお金がどんどん消えていくような(苦笑)。
お金を捨てるようなものですよね。よくわかります。
最初の頃は失敗を繰り返していくうち、どんどん情けない気持ちになっていましたね。木村伊兵衛写真賞受賞のご連絡をいただいた時、もちろんすごく嬉しかったのですが、なぜかそれと同時に思い出したのが、現像に失敗して暗室で泣いていた時のことでした。その当時は「この暗闇の先に何があるんだろうか」と路頭に迷ってしまっていましたね。このカメラに出会って、「なんとかこのカメラで撮りたい」という思いだけでここまでやってきたけど、こんなに大変な思いをしてまで続けることなのだろうか、と考えてしまいました。このカメラ自体が特殊な飛び道具のようなものなので、「このカメラを使っているという事実だけで自分は満足してしまっているんじゃないか」とか。「これでいいのか」という不安を抱えながらずっと続けていました。
でも、その経験があったからこそじゃない。やっぱり悩むものですよ。
だから、受賞のお電話をいただいた際、当時見ていた暗闇を思い出して「本当に良かった」と思いましたね。
私も同じような経験をしています。〈絶唱、横須賀ストーリー〉は、ロールを10m、全紙を400枚焼いたの。失敗することもあって、その時私も「いったい自分は何をしているんだろう」と思いましたね。
〈絶唱、横須賀ストーリー〉より
©︎ Ishiuchi Miyako, courtesy The Third Gallery Aya
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一枚現像するのに400円くらいかかったかな。失敗すると捨ててしまうから、もったいなくて。もう一つの問題が水道。一ヶ月間ずっと水を流しっぱなしだったから、水道局から水漏れしていないか確認の電話がかかってきましたし、水道代も数万円になってしまって。
そうして「私は何のためにこんなことをしているのか」、「この写真をいったい誰に見せるんだろう」と考えた時に、一ヶ月も暗室にこもっていて頭も少しおかしくなっていたのか、思いついたのが、「よし、宇宙人に見せるつもりで作ろう」ということでした。宇宙人ならここに来れるわけがないから、彼らを見せる対象にしておけば他の誰も私の写真を見に来る必要がない、と思ったんですね。そうしたらすごく気が楽になりました。「私は宇宙に向けて発信しているから、作品を発表して、誰も観に来なくてもいいよね」って(笑)。
ものすごく大きなスケールのお話を今聞いてしまいました!
私が相手にしているのは宇宙だから(笑)。悩みはどうしても出てきてしまうから、しょうがないじゃない。暗室作業ってやっぱり大変なものだから、「こんなことをしていたいいのだろうか」と思ってしまうのは当然だよね。
写真って答えがなくて、いつも自分との勝負じゃないですか。「この自分との勝負に勝つことはあるんだろうか」と思ってしまいますよね。
「勝つ」ってどういうこと?
写真って、自分に向き合う行為だと思うのですが・・・
それはそうだけど、写真は勝ち負けではないんじゃないかな。写真で大事なのは「自分がどこまできちんとできるか」であって、勝ち負けではないと思う。
なるほど。
私は搬入作業が大好きだから、全部自分で搬入と展示をするのね。そうすると、一番最初に完成した展示を見る客は、自分自身になる。そこで自分が納得できる展示になっていれば、「知らない人たちが見ても大丈夫」と私は思っています。作品に対して自分自身が全責任を負うことができるから、そういう意味で写真は面白いなと思いますね。それが私が30歳の頃の気づきでした。そうしていたら木村伊兵衛写真賞を受賞したのですが、当時、私は賞の存在を全然知らなかったんですよね。私は誰かに写真を習ったわけではないし、「女が受賞するのは初めてだ」という意味も含めて「どこの馬の骨」などひどいことを言われたものです。今おっしゃっていたあなたの悩みは、写真をやっていれば誰もが経験する悩みだと思います。そういう悩みがあってからこそ良い作品が生まれるんじゃないかな。
私はあなたがサーカットで撮った写真を見て、すごく感動したの。「えらいな」と思って。私は全然カメラに興味がなくて、いまだに35mmのF3のカメラとフィルムを使っています。でもそれは私の一つのこだわりだし、その一方で岩根さんはサーカットを見つけ出し、直し、それを使って作品として高いクオリティをもった写真を撮った、ということを一番評価しています。
ありがとうございます!石内さんにそう言っていただけて嬉しいです。石内さんからいただいた選評と、授賞式でいただいたことばがとても嬉しかったです。それで、どうしても石内さんとお話をしたいなと思ってこのような場を設けていただきまして。
授賞式の時はすぐに帰ってしまってごめんなさいね(笑)。
いえいえ、今回お越しいただいて、本当にありがとうございます。
40年も写真家をやっていると「女性の写真家として」という話は嫌というほどしてきたけれど、あなたみたいなタイプの女性写真家は初めてだと思う。
そうなんですか。
サーカットというカメラのことや移民の歴史が背景にはあるけれど、岩根さんが撮る写真はドキュメンタリーとは少し違うよね。記録ともいえるけれどそれだけではないし、純粋な表現かというと、それとも違くて。いろんな要素が複雑に絡み合って『KIPUKA』ができあがっていったんだなと思います。
その点は私自身悩み抜いた部分ですね。最初はハワイでのお墓探しから始まり、そのうち踊るのも撮るのも楽しくてボンダンスにのめり込んでいったわけですが、ハワイでボンダンスの写真をいくらたくさん撮っていても、それだけだと「世界にはこういうことがあります」と伝えるだけになってしまう。もちろんそれも大事な写真のあり方の一つだとは思うのですが、自分は「それではダメだ」と思っていました。
震災後、ハワイのボンダンスで一番盛り上がる「フクシマオンド」という唄が、実は原発事故によって帰還困難区域になってしまった福島の浜通りの辺りから100年以上も前に渡ってきたものであるということを知り、まずは福島の地に行きたいと思いはじめました。また同時に、それまでただ「目の前のものを撮ること」と思っていた写真との向き合い方が、もっと明確なものへと変わっていきました。
サーカットに出会い、これを使って写真を撮るようになってからは「空間を一緒に追体験する」ような感覚があり、これが写真であるというような定義が自分の中で変わっていきましたね。サーカットは撮影するのに時間がかかるカメラだし、見たままとは違う風景が写るけれど、これもまた写真であるということに気づかされて。
私は撮影がすごく苦手なのね。だからなるべく撮影はしたくないの(笑)。いつも撮影の際は持っていくフィルムを少なくして、お昼を過ぎたらもう終わりにしてしまう。だけど、サーカットで撮った岩根さんの写真を見たとき、これを使って撮ることはいわゆる撮影の行為とも違うなと思いました。だから、もし私もこんなカメラと出会っていたとしたら、撮影が好きになっていたかもしれないと思いますね。
このカメラで撮影をすると、物理的な負担がすごく大きいんですよね。カメラ自体が重いし、フィルムを扱うのも現像作業も大変。だから、けっして楽しくはないと思いますよ(苦笑)。制作中は「なるべく早く終わらせたい」と思ってしまうのですが、「このカメラで撮らなきゃ」と突き動かされるような思いだけを原動力に続けてきましたね。
こんな大きなフィルムを現像するという行為は、もはや写真作品を作るというレベルではないような気がします。「生き方」みたいなものがはっきりとなければやり遂げられないことだと思う。私も暗室作業のことを全部知っているから、あなたが抱えてきた気持ちもよくわかります。だからこそ、岩根さんの作品は本当にすごいなと思いますね。
暗室作業って私にとっては辛い作業で、けっして楽しんではできないんですよね。一方で、石内さんはよく暗室作業がお好きだとおっしゃいますよね。
そうね、私は大好き(笑)。暗室に入ると世の中から逃げられるような気がして、全部忘れられる。自分だけの空間で作業に没頭できて、世界が広がっていくような感覚があります。そして、その世界の中で何か新しいものがジワジワと湧き出てくる快感がありますね。私はロールプリントをやっていましたが、大きなプリントの中で粒子と出会う快感。そのときって、「写真を作っている」という感覚ではなくて、何か別のことを考えているんだよね。写真を作る作業として捉えていたら耐えられないから(笑)。暗室作業は私にとって「写真」というより「ものづくり」の感覚かな。また、私は誰かに習うわけではなく自己流でやってきたから、失敗を通して身体で覚えるなかで、「失敗することも悪くないな」と思えてきましたね。
撮影に比べると、暗室作業ってより「ものづくり」に近い作業ですよね。カメラを使うとなると、どうしても自分自身のコントロール外の要素が影響してきますから。
撮影って、同じ場所でシャッターを押せば誰もが同じような写真が撮れてしまうんじゃないかなと思ってしまうんですよね。もちろんそうではないのだろうけど。だから撮影という行為に興味が持てないの(笑)。
(笑)
その点暗室の作業は、言うなればその人の恨み辛みを印刷しているようなものだと思うの。暗室作業は感情的なことで、感情が一致していかないとうまいプリントは出来上がらない。そう考えると、あなたは両方きちんとやっていてえらいよね。
けっして楽しくはなくて、苦しいことの方が多かったですけどね(笑)。
でも、苦しみの後には快感がやってくるわけだから、大丈夫。
写真に写る「気配」
岩根:
ハワイのボンダンス、そして福島の盆唄と出会ったことをきっかけに福島にも通い始め、ハワイと福島の交流の場に携わっていく過程で出会った福島の時計職人の方にサーカットを修理していただいたりするなかで、私の『KIPUKA』はプロジェクトとして少しずつ広がっていきました。
昨年の横浜美術館での石内さんの個展『肌理と写真』を拝見させていただきましたが、石内さんの作品も、お母様の遺品を写した〈Mother’s〉からはじまり、その後依頼を受けて広島の被爆者の方々の遺品や、フリーダ・カーロの遺品を撮影した作品が生まれていき、さまざまな方から遺品撮影の依頼を受けられて、広がっていく印象があります。
石内:
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それについてちょっと聞いてほしいのだけど、広島のテレビ局の番組で〈ひろしま〉について取り上げられた際、テロップで私が「遺品写真家」って紹介されていたの。
(笑)
「なんで遺品写真家なの?」と笑っちゃって(笑)。私自身は「私は遺品を撮っているわけではありません。表面的には遺品かもしれないけれど、私が撮っているのはそうではない」と言っているのに、そういう紹介をされてしまって。放送後も抗議したけれどね。
私の母の個人的な遺品を撮った〈Mother’s〉というシリーズから始まり、広島、フリーダ・カーロへと続いていき、そして今はいわさきちひろの遺品を撮っています。遺品というのは岩根さんの撮るお墓と同じようなもので、写真に写る姿かたちはその遺品そのものだけれど、撮っているのはその服を着ていた人など、その場に見えない人。写真は目に見えるものしか写せないから、あなたの写真ならお墓、私の場合は物や衣服が写っていますが、撮りたいものはそういうことじゃなくて。
ついこの間も広島で撮影をしてきましたが、被爆された方々の遺品は74年経った今も保存されています。
今でも続々と遺品が届けられてくるんですよね。
前に比べると少なくなっているけれど、未だに遺品が寄贈されてくるという現実があります。それらは遺族たちが個人的には持ち続けられないなどの理由で持ち込まれるわけですが、もともとはとてもプライベートな個人の所有物が、資料館の手に渡ることによって、公のものになる。私は、個人のものが公のものへと変わっていくその接点を撮っているの。その時代の「かたち」を撮っているような。
写真は、残念ながら過去を写すことはできないよね。今目の前にあるものしか撮ることができないから、私が撮っているそれは「現実」なの。だからあなたが撮っているお墓も、今存在しているものだから「現実」であって、けっして過去ではない。あなたの作品を見ていて、そこが私の作品と共通する点かなと思いつつ、写真の在り方としての正統性を感じました。
ありがとうございます。ただ、お墓と比べると遺品の方がその持ち主のことをよりダイレクトに感じられませんか? 例えば「これはフリーダのものである」というように、誰が使っていたかがわかるので。
持ち主がいなくなってしまったら、もうその物に意味はないけれど、「なぜ大切に保管されているのか」ということをよく考えてみると、原爆に答えがあると思うの。広島の無名の人々が持っていたなんでもない物たちが、被爆したことによって今でも大切に保管されるようになったという現実があって、その現実が重要。私は目の前にあるその現実をただ撮っているだけ。岩根さんがお墓を撮るのもほぼ同じことなのかなと思います。厳密にいえば少し違うのかもしれないけれど。
私自身はお墓のことを怖いとは思わないのですが、石内さんは遺品に対して怖さを感じることはありますか?
全然怖くはないね。広島で遺品たちに初めて出会うまでは、モノクロの写真でしかそれらを見たことがなかったから「広島=モノクローム」というイメージを持っていたけれど、実際に遺品を目にすると、それらには色があり、形も格好良かったり、模様も綺麗だったりと、びっくりするほどファッショナブルだったんですね。もちろんモノクロで同じ遺品を撮っている写真家たちはいたけれど、私がカラーで撮り始めたのは、「彼らもお洒落を楽しんでいたんだ」という気づきがあったから。教科書などでは、被爆者たちはお洒落をしていてはいけないような、「彼らは被害者である」ということを教えられているような気がするけれど、被爆者たちだけお洒落をしていなかったなんて、そんなことはあり得ないでしょう。そうして実際に遺品たちを見てみたら「なんだ、思っていたイメージとはまったく違う」と思って。そのうち遺品を撮り始めていくと、「原爆が投下された1945年の8月6日に、もしかしたら私は広島の女学生で、この服を着ていたかもしれない」と思えてきました。そのとき感じたリアリティみたいなものが、私が〈ひろしま〉を撮り始めたきっかけ。実際、ある被爆者の女の子の遺品は見つかっているのに、遺体は見つかっていないというケースが未だにあります。もしかしたらその子が帰ってくるかもしれないから、私はその子のためにも彼女が着ていた服をきれいに撮ってあげたい。現実的には起こり得ないけれど、そういう思いはありますね。写真はこういうリアリティを持ったとき、写真だけではない、様々な世界を読み込む力を持っているんじゃないかなと思います。私はお墓の写真を撮れないし、自分自身もお墓には入らないと決めているので個人的にはお墓に興味が持てないのだけれど、あなたが撮ったお墓の写真はすごく良いなと思います。